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2013.12.11
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ようこそ、お越し下さました。





大阪と奈良を結ぶ竹内街道(たけのうち)。

竹内街道は日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に

「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」

と記されていた、日本最古の「官道」です。

一番古い国道という事なのでしょうね。

しかし、古道としての面影は1400年たった今はなく、

国道166号線と重なっている箇所が多く車の通行量の多い道。

大型トラックが脇を通る時は冷や汗もんです。

でも、旧道にそれた時、

ふと「聖徳太子が歩いた」道

かもしれないとか思いに耽る。


私達は、当麻寺から再び歩を進め

大阪と奈良県の県境の竹内峠を越えると

二上山登山の起点となって、

駐車場とログハウスのレストランがある

万葉の森に着いたのは11時頃か。


ここで少し早いランチをいただきましたが、

ちょっと美味しかったのでご紹介いたします。

万葉の森の日替わりランチ.jpg

いろいろ並んでいるでしょ。

右の大皿には生野菜、茶わん蒸し、黒豆、

香の物、自家製がんも風つみれの葛かけ、

中央にはヒレカツ、そして中華風スープに古代米。

これで、750円でした。




ご飯を頂いた後、二上山の雌岳、雄岳と登ります。

ちなみに、通常の呼称はにじょうさん

万葉の世界での呼称はふたがみやまというらしい。


二上山は高い方の雄岳で

517メートルと、さほど高くはありません。

だから、足にあまり自信のない方や、

年配の方でも挑戦できます。

上り勾配がきつい所もありますが、

ちょっとしたハイキングです。



雄岳頂上付近には悲劇に皇子と言われている

大津皇子(おおつのみこ)の墓があります。

DSCF6154.jpg

大津皇子の墓


どんな経緯から悲劇の皇子と言われているのか、

ちょっと調べてみました。



大津皇子の父親の天武天皇には

10人の皇子と7人の皇女がおり、

皇位継承が問題に絡みます。

その最有力候補が皇后である

鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)

(後の持統天皇)を母とする草壁皇子(くさかべのみこ)と

大田皇女(おおたのひめみこ)を母とする

大津皇子(おほつのみこ)の二人です。

草壁の母である鵜野皇后は天武を助けて

政治に関わっているのに比べて、

大津は5、6歳の時に後ろ盾となる母を亡くしています。

しかし、器量・才能をとってみると

大津のほうが優れていて人望も厚いということが、

日本書記には

「威儀 高く、風貌は大きくたくましい。

言葉はすぐれて朗(あきら)かなり、

才学あり、文筆を愛したまう。」

とあります。

おまけに、草壁と大津は 石川郎女(いしかわのいらつめ)という

才気あふれる女性に二人とも想いを寄せていていたが、

大津皇子がその心を射止めている。


実の息子である草壁をなんとか

皇位にと願っている鵜野皇后にとって、

そんな大津は邪魔者でしかない。

そんな折、天武天皇崩御。

そして妻である草壁皇子の母の

鵜野皇后が天皇即位して持統天皇となった。


その一か月も経たない中、

大津皇子は謀反の疑いで捕えられ、

翌日に自刃させられた。



こんなのは、昔から現代まで

よくある話なのかもしれませんね。



この頃はすでに、人の生が肉体が滅んだあとにも

形を変えて存在し続けるという西方浄土思想を

少しは理解していたと思うのですけどね。

今生の生が終わった後に、

西方浄土に生まれ変わりたいとする考えですね。

だから、次の生をよりよく生きるために、

今をどう生きるかという事。




奈良盆地から見て、二上山は西の方向にあります。

二上山の二つの頂の間に

夕日が沈む光景は、それは美しいそうです。

残念ながら私は、今回もその夕日は見られませんでした。

二上山の夕日.jpg

ちょっとお借りしてきました。


二上山の大和側が現世、

西の難波側が浄土の世界と

考えられていた時代です。

時の権力者の古墳が、

二上山の向こう側に多いのはそのせいか。




大津皇子の悲劇には、後日譚があります。

大津皇子が自刃して3年後、

持統天皇の実子草壁皇子が急逝した。

時期天皇となるはずだった草壁皇子の突然の不幸は

母に大津皇子の祟りかと恐れさせたのかもしれない。

そのためか、大津皇子の再葬を行っている。


更には、持統天皇は死んだ草壁皇子の子の

軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させたが、

これまた25歳の若さで崩御された。

こんなドラマがあったのです。



宇宙の因果律の法則が働いたのか、

はたまた祟りなのか・・・



行いが、ブーメランの如く

自身に返って来ると言われていることは、

いまさら言うまでもないことですね。


そんなことに想いを馳せながら、

二上山からの急傾斜の下りを

一歩一歩足を進めました。







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Last updated  2013.12.11 05:46:02
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