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カテゴリ:旅
ようこそ、お越し下さました。 寒くなってきました。 島でも12月14日に初雪が降りました。 これは、例年よりも早いかな。 我が家の遅咲きのバラが かれこれ二ヶ月近くも咲いていますが、 雪化粧?をしてとっても寒そうにしていますね。 半ミイラ化しているバラの花 旅に出ると、島ではあまり見られない光景を目にします。 勿論、人の多さが違いますからそれに合った世界があります。 人が多いから、その分生き方も多く存在します。 それぞれの生き方を尊重しなければなりません。 でも、尊重しながらも、 わが心に爽やかな風がそよぐか、 不快な灰色がかった風を感じるか・・・・・ そうだな~~ ちょっと不快を感じるのは~~ 集団バイクの騒音とか、 若い女性の厚化粧とか、 ゴミを道に捨てるとか、 注文した食べ物を残すとか。 こういう事を書くと、 ジジイのヒガミか、、 と思われてしまうのかね。 このような事は、 自分も若い時には似通った事を やったことを忘れて言っている。 年を重ねて、少しは客観的に 見られる余裕ができたという事か。 頭では、そういうことをやっても自由だし、 自由の代償として我々は その責任を自身で負わなければなりません。 そうして月日を重ねて、 「美」というのは何なのかという事を 学んでいくのだなと思える。 しかし頭=理性と、心=感情が どうも一致しないことがある。 集団バイクには耳をふさぎ、 付けまつ毛の厚化粧おねえちゃんの顔を見ないようにし、 といった具合で自身を防御している。 なるべく、美しいもののみを 見ていたいと願ってしまう。 若い頃、そう26歳くらいからか、 従業員100人くらいの会社の代表者になった時、 周りを見渡すと、自分より年上の 従業員や取引先がほとんどで、 背伸びをした時があります。 生まれ育った埼玉から、 全く未知の地仙台に飛び込み、 思いっきりあがきました。 貫録を出すためとして 一日5食で体重増を図り、 強烈な個性を身に着けるための 強い「自我」を身に着けようと、 「自分色」を強く表に出そうとした時期でありました。 好きな色はこれ、 好きな生き方はこれ、 女性観は、結婚観は、死生観は・・・と、 これらを確立させようとしてきた。 自分はどうなのか、 どうなりたいのか という事を常に意識し行動した。 その時は、企業の中で生き残りをかけた戦いを勝つために、 必死になってこうしなければならないと感じた。 そして今、島に移り住んでから20年、 この強烈な個性をいったんは白紙に戻し、 そして更に自己を見つめる20年でした。 私にはこの過去の癖?が まだ残っているのかもしれません。 我々の地球は、敢えて精神性や 霊性の高い人から低い人まで渾然としていて、 かなりの階層のるつぼ。 その中で自身を高みに育てなさいという、 宇宙でも稀有な惑星と言われています。 その混沌とした中で、 自身の理想としている 生き方を創造していくのは、 かなり難しいことなのかもしれませんね。 それが、我々に課せられた試験だという事は、 皆さん認識されていることでしょう。 試験、試練というと、 何やら緊張と悲壮感が漂う感じがしますが、 その人に観合った世界が展開されるのが この宇宙の真理とされている。 人は、どんな状況の中においても 評価するようにできている。 どういう評価であれ、 評価とは生きていく上での指針。 必要不可欠な要素です。 評価はしても、批判はするなと 精神世界では言われるけれど、 それが大変難しい。 評価と批判は一対に なっているような気がします。 例えば、公共とおぼしき場での喫煙を考える。 喫煙するのは、その人の選択の自由だ。 しかし、紫煙は苦手としている人が いるかもしれない場では 控えてほしいと誰でも思う。 そこで、そんな場所での喫煙は 「良くない」という評価を下す。 次に、そういう場所での喫煙をしている人を 批判的に見ては仕舞わないか。 これは、批判的な言葉を 「口で言う」「言わない」は関係なく、 そういう想念を発したかです。 集団バイクの騒音に耳をふさいでも、 心の中のトゲトゲはなかなか蓋ができないもの。 しかし、最近ではこう思うようにしている。 目の前に展開される現実とされるものは、 自身の心の投影であると 仏教の「唯識思想」が教えています。 だから、耳目に飛び込んでくる 批判したくなるようなものを拒否せず、 自身の心の吹き溜まりに巣食っている 垢なんだと思い、受け入れよう・・・・・と。 このことは、気長にお付き合いしていかないとね。 旅先は非日常の中という世界では、 より自身を見つめられます。 だから、旅は 「自分探し」 と言われる所以なのか。 旅先で、早い桜が数輪咲いていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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