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カテゴリ:人生観
ようこそ、お越し下さました。 週末ごとの降雪、 亡くなった方もいるとか。 雪かきや雪おろし、 ご苦労されていらっしゃる方も 多いと思います。 網地島でも、25cm位の積雪でしたけど、 日中がそんな寒くはなかったので、 今はほぼ融けています。 病んだ地球が調和を取り戻すための悪戦苦闘。 生活に支障をきたしている方も多いとは思いますが、 文句や愚痴を言うことなく、 そのままを、在るがままを 受け入れたいと思っております。 さて、今日も先週に引き続いて ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さん の言葉に触れたいと思います。 「置かれた場所で咲きなさい」 このことは、私が考えている 「今生の人生の仕上げ」そのものです。 どんな環境でも、自分が身を 置くところで見事咲切る。 咲くという事は、 どんなに苦しくとも、 無視されても、 笑顔と感謝で 周りを明るくする。 不都合であっても、 それを教訓として感謝する。 なかなか出来ませんね。 でも、渡辺さんはこれを目指せと言う。 100年前の詩人 八木重吉の「愛」という詩の中の一節 いきどおりながらも 美しいわたしであろうよ 哭きながら(なきながら) 哭きながら うつくしいわたしであろうよ というのがありますね。 どんな時でも、「美しいわたし」でありたいという。 これも、置かれた場所で咲きたいという事ですね。 「美しいわたし」ってどんな私? それは、それぞれの人の心の中に宿っていること。 私も、島に来て20年、 美しく生きたいと願い、 日々送っているつもりだったけど、 その完成度は言わずもがなで、 全然できていません。 その道程は、一歩一歩、 カメさん歩行です。 でも、願い続けることが出来れば、 「ああ、こんなんじゃあいけない」と、 絶えず自分を修正し続ければ、・・・ 少しずつ近づけて、きっと、 なんとかなるね・・・と楽観視。 幸いにして、 私は世俗から一歩離れた 環境の選択を許されたから、 人の中にどっぷりと 浸からないで済んでいる。 このことは大きいですね。 とっても有難いことです。 「置かれた場所で咲く」事と 「美しいわたし」であることを 醸し出す要因として、 「許せる」 という事が大きいんじゃあないかな。 目の前に展開されることに対し、 許すとか許さないとか思う前に、 その事は自身の内面の投影で、 そこには気付かない自分に対しての 学びが潜んでいる。 このことは、仏教の唯識思想が 教えて下さっています。 勿論、自身の内面とは今生のみならず、 長い長い過去生も含めた 魂の歴史すべてと考えた方がいい。 基本的には、「許す」という感情は、 その事から考えると無知からの 傲慢に繋がると言ったら言い過ぎか。 長い過去生からの自分の蒔いた種を、 因果律の法則にのっとって 自分が刈り取ること。 どんな刈取りになっても、 それを素直に受け入れ許し、 感謝すれば、 それが「咲く」ことに なるのでしょうね。 だから、どんな展開になっても被害者はいない。 自分のまいた種の責任を持つという事ですから 「害」という捉え方からすれば 自分が加害者で、被害者という事になる。 今も、刈り取りながら、 同時に種まきもしています。 今「咲く」ことが出来れば、 これからの刈取りは楽しみになっちゃうね。 「でも、現実は・・・」と言って、 今までの生き方を選択するも、 もちろん自由ですよ~~~。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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