試練は学び
ようこそ、お越し下さいました。我が家の震災被害は思ったほど少なく、壊滅的な本土沿岸部と比較すると、申し訳なく思うほどです。少ないと言っても、私一人で修繕にかかったとして、そうですね、2か月位はかかるでしょうか。今までは、部落の活動に専念していましたが、少しづつ自分の時間が持てるようになったので、修繕にかかり始めています。港や浜の瓦礫は、私にとっては宝探しの場所となっています。だって、まだまだ使える材木が結構流れ着いていますからね。ただ、単純に焼却処分するより、ずっといいですよね。そして、一番は我が家には収入が全くないのだ・・・(涙)何せ、貯金や保険はほとんど無い生活をしているでしょ。「今を生きる」事をやってきたので、3月の旅から帰ったら夏までは何とか食べていけるくらいは稼げるかなと。夏になれば、忙しくなるし・・・そんな中での今回の震災でしょ。だから、建築資材は買えないのだ。(とほほぉ)そんな状況でも、私は全く悲観はしていませんよ。何せ、私は「神の子」ですもん。「なるようになる」お導きがありますからね。まるで、現代の常識論から言えば、まるでアホなくらい天を信じ切っている私です。信じてるついでに書いちゃおうかな。(こんな日本語、あったかいな)今回の震災は、多くの痕跡を残しました。被災地にも、被災者にも。これからの季節、庭先にアリの巣を見つけますよね。働きアリたちが、一生懸命に巣作りに専念している光景を目にします。そんな時、ザーッと夕立が過ぎて行く。巣は、もちろん水浸しで大洪水。まるで、今回の津波のように。翌日、雨が上がってアリの巣を見てみると、そこには復興に向かって働いているアリたちの姿がすでにある。こんな光景を何十年と見てきました。アリさん達は「神の子」なんだと、しみじみと思える一コマです。今回の東北の震災は、「何で我々が!」という疑問を持っている方もいることでしょうね。自然現象だから仕方がない、という所に落ち着くと思いますがね。まあ、我々人間レベルを超えた神の経綸です。きっと、しっかりとした理由があってそうなったことと思います。ただ、これだけは言えるでしょう。試練と思える辛い出来事は、過去に積んだカルマの清算には違いないのだけど、学びの為なのです。罰則やバチが当たった、ペナルティでは全くありません。そろそろ、私達は3次元を卒業するか、あるいは3次元に残るかの選択の時期が近づいてきているようです。卒業組は、物からの執着を手放さければなりません。「物」は、たくさんありますね。家や土地、事業の基盤といった物的財産、ここで生まれ育ったという土地への執着、肉体という魂の着る服も入るでしょう。これらを奪われた後、「さあ、あなたはこれからどう生きますか?」という「学び」なのだと思います。ここで、更に言わせていただければ、今回の震災で亡くなられた方は、(肉の体を脱いだ方は)、もうすでにその人に見合った素晴らしい世界に向かうための準備にかかっていることと思います。ちゃんと守護する存在や導く存在が大勢いて、きちんと行くべきところに落ち着いていることと思います。もちろん、私達も肉体を脱いだ後は、そうなりますね。私達一人一人の主体は、肉体ではなく魂です。肉体は、3次元の地球で生きていくための服。肉体の死後は、その世界にふさわしい霊体が用意されているのです。だから、私はいつも言うように、「肉体の死」は終わりではなく、スタートなのだと。「永遠」という概念は言葉ではなかなか言い表せないのですが、例えば私達の魂の表現する場が、100メートルだとして、今生きている3次元での表現領域は1cmにも満たないのではないでしょうか。(実際は、3次元を超えれば時空が無いとされますから、距離の概念は当てはまりませんけどね)「井の中の蛙・・・」の例えと同じかもしれませんね。井戸の中だけの世界観、「死んだら終わりだ」とする世界観、なんか似ていると思いませんか。こういう気持ちになれるまで、やはり時間が必要でしょうね。でも、いつまでも執着を手放せずにいたら、せっかくの天の計らいが無駄になってしまいます。今日は、別のことを書こうとしていてこうなっちゃいました。まだ、心が癒されていない方が多くいる時に、こんな話は少し早いかなとも思いましたが、お気に召さなければお許しください。これは、私の独り言です。