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カテゴリ:徒然うさ
受話器を取ると「もしもし」という聞き覚えのある声が流れてきました。 私は声を1オクターブ上げて答えました。 「お掛けになった電話番号は、現在使われて…」 「いるでしょう。現にこうやって。佐々木ですよ。何の用事か分かりますよね!」 「とうとう長期療養なさるんですか。ご快復をお祈りします」 「とぼけないで下さいよ。約束の仕事はやって頂いたんでしょうね?」 「それが、えー、何と表現したらいいのか、適当な言葉が見つからないんですが…」 「表現の問題なんですか?」 「ある意味では、ご期待に添えなかったとも言えるし、別の意味では、ご期待通りとも言えるし…」 「はっきり言えないところを見ると、出来てないんですね!?」 「えっ、やっぱり、出来てないことを期待していらっしゃったんですね。よかった。一時はどうなるかと思った」 「そんな期待をするはずが無いでしょう。もう、どんな期待も持てなくなりましたよ」 「そう、それでいい。ずいぶん人間的に成長しましたね」 「ふざけないで下さいよ。本当に出来てないんですか?!」 「残念ですが、本当です。今ほど、自分が嘘つきであって欲しい、と思ったことはありません」 「でも、九月の月末に、あんなに誓ったじゃないですか。『今度こそ十月中に仕上げる』って。十月中、一体何をしていたんですか?」 「まったく、自分でも、どうかしていたんだと思います。錯乱状態だったとしか、考えられません」 「でも、十月中、ずっと錯乱状態だった訳じゃないでしょう?」 「いえ、錯乱状態だったのは、九月末に約束した時です」 「こっちが錯乱状態になりそうですよ。あと、どれぐらい残っているんですか?」 「あと、三分の一ぐらいです」 「えっ、九月に聞いたときは、あと四分の一だと言ってましたよ。残りが増えてるじゃないですか!?」 「本当だ。どうりで完成しないと思いました」 「勘弁して下さいよ。本当に長期療養したくなりますよ」 「やっと、そういう心境になってくれましたか。何といっても、身体が一番です」 「長期療養に追い込む元凶は誰だと思ってるんですか!」 「もしかしたら、元凶の中に私も入ってるんですか?」 「元凶のすべてですよ!」 「えっ、そうなんですか。私も長期療養したくなりました。初めて意見が一致しましたね」 「一致なんかしてません。十月中、何をしてたんですか?」 「何をしてたか、と訊くより、何をしなかったか、と訊いてくれた方が答えやすいんですが…」 「何の理由も無く、ただ、仕事をしなかったんですか?」 「何の理由も無く生じることは、いっぱいあります。たとえば、恋がそうです」 「そんな言い訳が、世間に通用すると思ってるんですか?!」 「思ってません。世間には偏見が満ちていますから」 「お願いですから、今は偏見と闘わないで下さいよ!」 「本当に後悔してるんです。 十月中ずっと身内の不幸が続いた、と言っても信用してもらえないし、 病気だというのは前から通用しなくなってるし、入院でもしておけば良かった」 「逃げ口上しか考えられないんですか?」 「違います。逃げ口上を考えつかないから、困ってるんです。 小細工はやめて、はっきり認めます。弁解の余地はありません。 実はここ数日、あまりに申し訳ない、こうなったら佐々木さんを殺すしかない、 と思いつめてました。 幸い、佐々木さんなら、先も長くなさそうだし…」 「や、やめて下さいよ。私がそんなに悪いんですか?」 「もちろん、悪いのは佐々木さんだけじゃありません。 佐々木さんを殺した後で、自分も死ぬつもりでした」 「むちゃ言わないで下さいよ。そういう覚悟を仕事に向けられないんですか?」 「今月中には、必ず仕上げます」 「“今年”の“今月中”でしょうねっ!!」 ≪注≫ 私の周囲で、佐々木さんという実在の人物をご存知の方もいらっしゃると思いますが、ここではっきり申し上げておきます。 この文章はフィクションであり、この文中における個人名は、実在の人物とは無関係ではありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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