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人は表情や身振り手振りなどでもコミュニケーションを行いますが、最も重要な手段は言語によるものでしょう。
そもそも言語は様々な機能を持っていますが、ここで忘れてならないのは、退屈させるという機能です。 結婚式の披露宴など、あらたまった席では必ず、退屈させるためにスピーチが用意されています。 スピーチの内容は、ほとんど決まっていて、「いつまでも仲良く」とか、「協力して幸福な家庭を」といった奇跡を願うようなものばかりです。 こういう話を聞くには人生は短すぎます。 (話を聞いているときは、時間の流れるのが非常に遅く感じられるのが不思議です) 結婚という迷路に迷うにも人生は短すぎます。 たまには、「どうして結婚なんかしたんだ!」と叱ったり、結婚の弊害を主張する人がいてもよさそうなものですが、そういう人が披露宴のスピーチを頼まれる可能性は皆無に近いでしょう。 これが“離婚披露宴”なら、離婚する二人から“離婚の秘訣”などを聞けるところですが、結婚披露宴では、ありきたりの話ばかりで、そういう有益な話は期待できません。 披露宴会場では、居眠りも読書も腕立て伏せもできず、できる事といえば退屈しかありません。 退屈する仕組みになっているのです。 退屈から救ってくれるのは、わずかに、目の前の料理が冷めてしまうのではないか、という心配くらいです。 一方、スピーチをする方は退屈を逃れています。 しかし、並み居る列席者がもっともらしい顔をして聞いているふりをしている中で、何がめでたいのか確信が持てないままに無理やり結婚を祝福させられるのです。 楽しかろうはずがありません。 わずかに救いになるのは、自分の話を聞かされる人達が、じっと退屈に耐えているという事実くらいです。 スピーチの間、結婚する本人たちは、当然、神妙な顔をすることを義務付けられていますが、心の中では、余興で歌う歌詞を暗唱したり、久し振りに着た着物が苦しくて「料理を全部食べられないのではないか」と心配したりで、誰も聞くどころではありません。 このように参加者全員がスピーチを迷惑がっているのに、なぜ必ずスピーチが行なわれるのか不思議です。 スピーチのように全員が嫌がっていることが当然のように行なわれるというのは、不可解かつ不愉快なことです。 もしかしたら、新婚の二人がこれから味わう苦痛を、関係者全員で分かち合おうとしているのかも知れません。 スピーチが全員合わせて五分程度の長さなら、まだ我慢できます。 しかし、ほとんどの人は、短いスピーチでは失礼になると考えているからやっかいです。 「簡単ではありますが」と断る人がいますが、こういう人の話が簡単であったためしがありません。 第一、「簡単ではありますが」という部分が余計です。 余計な部分を挿入することに、何の抵抗も感じていないのですから、話を短くする努力を払う気がないことは明らかです。 むしろ、こういう人は、話は簡単であってはいけないと考えているのです。 こういう感覚で簡単だと言っても、話を聞く側が簡単だと感じられるはずがありません。 それとは逆に、「話が長くなってしまいましたが」と断る人がいますが、こういう場合、本当に話が長い。 本人が認めるくらいですから、他人が聞けばもっと長いのです。 「ひとことで言いますと」と要約する人もいますが、「ひとこと」がひとことで終わることは絶対にありません。 それに、ひとことで言えるなら、どうして最初からひとことで済ませてくれなかったのか。 さんざん喋った後で、今さら要約されても、要約の部分だけ長引くだけです。 このように、どう工夫しても、言語が退屈させる機能しか果たさない場合があります。 もちろん、こういう(退屈な披露宴などの)場合には、スピーチなしのパーティーにするという方法もあります。 問題なのは、私の仕事における私のスピーチです。 (一般的にはプレゼンテーションと言い換えられています) 自分でも退屈だと思うのですが、言語を使用しないで意思の疎通が可能なら苦労しません。 仕事以外でも、言語を使用しないで、女性に感情(愛情など)を伝達するとなると、社交辞令、美辞麗句、虚言、歯の浮くようなお世辞、でまかせ、責任回避の伏線、練りに練ったシナリオ、偶然を装った演出、あえて意識的に使用する誤解を招く表現、などが必要なくなるでしょう。 仕事においても、私が(苦い実体験を通じて)苦労して身に付けた、言い訳や言い逃れのテクニックが使えなくなります。 言語には「ごまかす」という機能があることも忘れてはなりません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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