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カテゴリ:お題
遠くにその存在を認めるだけで、心臓が跳ね上がって。 甘いような酸っぱいような嬉しい気持ちになって、なんだか顔の筋肉が自然と笑みを作って。それだけで良かった。見つめるだけで満足していた。 嗚呼、こっち向かないで。あっち向いて遊びに熱中していて。 目が合ってしまったらその姿を視界に入れられなくなる。だからそのまま友達と笑ってじゃれたりしていて欲しい。校庭を走り回るまだ幼げで無邪気な表情の相手を眩しい想いで教室の窓際からこっそり眺めながら、ドギマギとそんな風に願ったりした。 相手の存在を堪能するだけで充分。自分の『恋』はそれでいい。 相手が私の存在を気にもかけていないのだけは痛いほど分かっていたが、「せめて気持ちを伝えるだけでも」と思えるほど自分に勇気もなく、また私と同じ年齢の子供たちは、まだ意中の相手も周囲も告白などという行為を慌てず騒がず受け止められるほど大人でない事も知っていた。 そんな状況の中で自分の気持ちが露呈した時の事態を考えると、とてもじゃないが悪い方向へ悪い方向へと物事を想像する事になって更に臆病になり。 また同い年の中では身体も小さく貧弱な部類に入る私は、外側からの見た目に反して(あの時代の生まれにしては)成熟が異常に早い子供で、誰にも言いこそしなかったがおそらく教室の誰よりも早く『好き』とか『あっちっち』とかそういったモノに「その先」というものが、少女的な夢を幻滅させるような具体的なカタチで存在するのを知っていた。 そして自分の想いが、その、乙女の幻想を打ち砕く「その先」を望むものに繋がる種類のものであるのも重々承知の上であったので、憧れが強い相手であればあるほど何か好きな相手を汚してしまうような気がして、尚更自分の気持ちにある種の禁忌感を覚えて口を噤んでおり、おかげで私がまだ「女の子」であった時分は圧倒的に相手に自分の気持ちを吐露するにも至らない『片想い』で終わる恋が多かった。 ああ、早くこんな想いが許容されるような年齢になりたい。 そう祈りながらのとても苦しい片恋であった、と、記憶している。 しかし、あれから20年近くが経ち、「こんな想い」はとうの昔に誰しもに許容されるのが当然の年齢になり、自分の肌が「その先」の行為に馴染むようになって。 相手を見ているだけでは済まなくなって、上手く気持ちを隠す必要もなしに好きだの冷めたの惚れたの腫れただのを一通り繰り返して、遠くから想い人を見つめ続けるような堪え性もなくなり、自分のエゴを押し付けたり相手の気持ちを計りたいばかりに駆け引きを凝らしてみたり、いい加減それらに疲れてそろそろ自分も落ち着いてきたのかな、と自嘲気味の笑いを漏らす今の自分が当時を振り返るとどうだろう。 自分とは何の関係もない空間の存在の一挙一動に一喜一憂して切なく苦しい想いに胸を浸し、それでも自分に言い聞かせ続ける。 「相手の存在を堪能するだけで充分。自分の『恋』はそれでいい。」 案外、そんなピュアな『片想い』が一番楽しいのかも知れないと、最近になって思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年06月01日 15時50分09秒
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