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カテゴリ:お題
片恋の君の靴箱をにらむのが毎朝の習慣だった。 『あ、もう来てる・・・。』 大きくて土に塗れたスニーカーが無造作に靴箱に放り込まれていて、代わりに上靴が消えているのを、自分の靴を出し入れする一連の動作の間に、極力視線の先を誰にも悟られないようにして素早くチェックする事で持ち主のその日の在/不在を測っていた。 一瞬の視界の映像で「彼の靴、大きいんだなぁ」とか、「靴の入れ方、乱暴だなぁ」とか、そんな微笑ましい余韻を噛み締めながら階段を昇っていくと、朝の廊下の喧騒の中、私の目は間違えることなく彼の姿を捉える。本当は気持ちがそこへ吸い寄せられるようで、存在をいつまでも双眸の中に捉えておきたいクセに無理矢理に欲求を引き剥がす。 そこに彼がいると確認した後は、平静を保てそうにない顔の筋肉を引き締めて、不機嫌そうな、眠たそうな顔を作り、それが完璧なのを何度も自分の気持ちに言い聞かせる作業が済んだら、無関心を装って何食わぬ顔で彼の横を通り過ぎながら、心の中で。 『おはよう』 すれ違った私の背後には、私の気持ちと何ら関係のない彼と彼の友達たちの笑い声が降っていて、自分の声が彼に届いていない事をよくよく実感したら、ようやく私の唇は微かな笑みを形作るのだ。 天邪鬼は重々承知。 結局、片恋の君に自分の声で挨拶などというものをした事もなく、一切言葉を交わす事もなく学校も別々になって大人になり、相手が現在一体何処でどうしているのか知る余地すらもなくなって、それこそ他の色々な相手との幾種類もの『おはよう』を自分の口から紡いできたが。 「おはよ。」「んん・・・おはよ。」 現在の情人とこの寝ぼけまなこで些かただれ気味の『おはよう』を交わす時、なんとなく、素直にかるーく挨拶すらできなかったあの頃の自分の頑なさというか純情さというか奥手さというか奥ゆかしさというか、を、思い出して、人間変わるもんだと苦笑いしてしまう。 多分、目の前のこの男は、下着姿でだらしなく布団に包まったままの私が自分と挨拶する度にそんな甘酸っぱい過去を回想しているとは露ほども思わないだろうし、生まれた時からあばずれでしたと言わんばかりの態度の私にそんな切なくて馬鹿な少女時代があったなんて、もし語ったところで想像がつかない事だろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年06月01日 22時42分36秒
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