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カテゴリ:お題
特に『両想い』のすべてを否定する気もないのだが、私は、両想いというのは基本的にはあり得ない現象だと思っている。 そもそも両想いというのは、言葉どおり双方の想いを同じくして通じ合っている状態を示す言葉でなければならないはずだ。しかし人が人であり、動物の一個体として存在する限り、空間や時間を共有するのは可能であっても脳の一部を共有するのは不可能であり、故にふたりの間には多少なりとも気持ちのズレというのが存在するのではないだろうか。 別に私のような女でも世間一般に両想いと呼ばれる現象がなかったわけでもない。 だが、こう、実際に世間でいう『両想い』を体験してみると、お互いの気持ちを知って熱い胸のうちの衝動に正直に突進してそれらの行動が実となり、周囲に「両想いね☆」とヨイショされて「そっかー両想いかぁ」とへらへらと笑って応えているうちが花、というかなんというか。 対象との関係も一段落して落ち着いてきて、それぞれに自分の時間がほしくなって、一歩引いて今までの自分たちのあり方をよくよく振り返って考えると、「『両想い』ってこんなもんなの?」という疑問がむくむくと湧き上がってくるのである。 今、恋人同士として存在しているカップルのほとんどが事実上の両想いなのだろうが、その当事者たちですら、(原因は本人同士の努力の欠如か単なるタイミングの悪さなのか、その辺りは測りかねるが)紆余曲折を経て現在の両想い状態に漕ぎ着けるまでの間に、相手は何らかの用事に熱中して自分の存在を脳内不在の状態にしており自分だけが相手に想いを馳せているとか、逆に自分はゆっくりとひとりきりの時間に浸っていたいところを相手の切羽詰った想いに応えるのに労力を割かなくてはならないだとかで上手くいかない気分を感じた瞬間を1回や2回は経験しているのではなかろうか。 そういう状態の事を私自身では勝手に事実上の両想いであっても片方の気持ちだけが空回りして相手に届いていない・相手と同調していないという理由で『精神的片想い』と呼んでいる。逆に言うと『精神的片想い』のタイミングと方向性が合わさって、互いの気持ちがきっちりシンクロしてはじめて『両想い』と呼ぶんじゃないだろうか、と、私は考える。 そのような『両想い』が仮に現実にあったとしても、それは運命の悪戯、ロマンのない言い方をすれば偶然の産物ともいうべきもので、例え出会った瞬間に両者一目惚れで恋に落ちて勢いであんな事もこんな事もしちゃった勇猛果敢な恋の猛者であっても、何年も付き合い続けてお互いが空気と言わんばかりに息の合わさった恋人同士でも、百戦錬磨の恋の達人同士でも、やはり人間と人間である限り、同じタイミングで同じような方向性で同じ強さの想いで相手を想いあうなんて事はいくら意図的に操作したとしても至難の業、というか、物理的に無理があって、一度それを体験してしまったからといって「あの素晴らしい愛をもう一度」と言わんばかりにそれを無理矢理に求めて実現しようとすればするほど『両想い』の状態から離れていって、やがては自分の中に大切に抱えていた甘い幻想すら自ら砕いてしまうハメに陥るんじゃないかなー。 ・・・などと、『両想い』を冷めた目で見ている私こそが『精神的片想い』を数多くしてきたが故に「『両想い』なんて所詮幻想なのではないか」と懐疑的になっている張本人だったりするのだが、どこら辺でどうやって『精神的片想い』をしてどのようなプロセスで玉砕すると、私のようにヒネて恋愛のロマンチシズムに対して否定的になるのかは100題に回答していくうちに自ずと明らかになるだろうから、ここで多くは語るまい。 だが、あまり『両想い』などという言葉に甘い夢を見ない方がいい。 もしくは私みたいなすれっからしの大人にならないように、若い人には今から真面目に恋をする事をオススメしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年06月05日 00時13分28秒
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