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今日も朝はとても寒かったけど、豆炭アンカ(古っ!)がよく効いて布団が暖かくとても気持ちがいい
このいい気持ちは遠い昔に感じた事があるような気がする 実感はないけど、ここ2.3日は具合もいいので書いておこうかなぁ? 別に誰かに読んで貰うとかの目的でもないし、とりとめのない日記のようなものだから、たまたま目に止まった人も深く考えないで欲しい♪ この気持ちよさは、まだ私に自我が芽生える前なのか? それとも私がこの世に両親に産んでもらう前なのか?はっきりしない 手足の感覚も覚えがなくって、春の花の梅や桜の花みたいに小さくって、ふわふわしてただキラキラ明るくてぽかぽか暖かかったように思う それは仏様の手の中なのか?イザナギ、イザナミの大神様の大御心の中なのか? などと罰当たりな事を考えながら、うとうとしていた今朝の事! どきっ!として気が付いた そんな大層なもんじゃなくって、ず~っとまえに他界したばあ様のおんぶの背中や、いまだに口やかましいお袋様が若かったころ、抱かれた懐の暖かさだと言う事に・・・ ばぁさまはいろんなものを作って食べさせてくれた、夏のスイカの大きくて甘かった事、おやつに作ってくれたカステラやお団子のおいしかったことなどなど・・・ お袋様の家で作った野菜や山菜のご飯のおかずがおいしかった事 母方の大叔母、『芦屋のおばさん』の真っ白いおしんこなんかも思い出深いなぁ って、今思えば食い物の思い出は今では全部、田舎のお袋の味みたいなものだと思うけど、 そんなこんなで、うとうとしてたら今日は大東亜戦役の真珠湾攻撃の日なんだなぁ 戦争の記憶なんぞ、私には当たり前ながら全くない でも、父方の祖父は帝国陸軍の下士官だったし、長老の『アベのおんじい』は近衛連隊の歩兵准尉殿、隠居(分家)の原田正美オッサンは少尉殿だったし、『芦屋のおばさん』の連れ合いゼンサ(九鬼善三郎=ぜんさん→ゼンサ)のオッサンは帝国陸軍軍曹殿だった 極めつけは丹波の山奥なのに、母方の大叔父、ブンサン(藤井文二=分さん)は海軍の水兵さんだった 階級は知りませんけど水兵さんですから、エラくはないはずですわな? なので、いろんな軍隊の話を聞く機会は多かったように思うけど、強烈な話以外はあまり覚えていない 覚えてるのは、『あの戦争はアメリカが日本をいじめたから日本が切れて始めたんが真珠湾、敵と戦うのが兵隊の勤めやけど偉い人がヘタクソな指揮をしやがって負けたんじゃー!』 んで、このじ~様たちはシナの事を絶対、中国とは言わなかった 中国ってのは、広島や岡山のことだそーで、石原慎太郎さんとおんなじこと言ってました♪ って言ってたことやその他色々・・・ 『ワシらは丹波の青鬼の子孫じゃ! そうそう下手打たんわい それが証拠にシナでわし等の連隊が出張ったらシナ兵は逃げマクってたわい! 山岳戦の篠山連隊、丹波の鬼連隊を舐めたらあかんど~』 とかなんとか・・・ じ~様たちの武辺話はどうでもいいけど(どうせすごい昔の話やしね♪) 何で一人も生き残っていないじ~様たちを思い出したかと言うと、私の剣道の師匠、H先生なんだわ・・・ この先生、お酒を飲まない! でもカラオケ好き♪ 始めは、コリアンスナックへ行って、ウーロン茶でカラオケの練習したんだそうな 練習曲はなんとコリアンスナックで日本の軍歌『同期の桜』これが専門だったらしい・・・ (先生、よ~やるわ! すげー度胸!) その後、いろんなレパートリーがおできになったようですけど・・・ 口止めされたわけでもないですけど、進んでしゃべる事でもないような気がします このことは、大人になってお稽古つけてもらいに行った時に聞きましたがな この先生には私が15歳の頃からお世話になりましたけど、30年の間お稽古の取り組む姿勢以外の技などには 一回しかほめてもらった事がありません 在学中はお稽古をつけてもらうのは一番ばかりを目指して3年が過ぎご機嫌のいいときに何人かの競争で先生にお稽古をお願いに走って行くんですけど 一番になった時に笑いながら 『よし、原田!』とお声がかかるだけでした この『原田』と言う呼び方も私の郷里での発音で、呼んでくださったものです 私も田舎からぽっと出たいなかっぺでしたから、ほっとしたものです 2つ上の先輩たちも中には『原田どん』つって親しんで?呼んでくださった方もいらっしゃいましたほどです 30年間のうちで22歳ごろだったか? お稽古をつけてもらってた時のこと真正面がまともにきまったことがあったこのときだけは 『しまった! 振りかぶって打ってきよった!』んでお面がど~ん!でした 後でコーヒーを頂きながら 『あれでいい! あれを覚えろ、小さく打つのは他のものに任しとけばええ 大(おぉ)先生もあれなら褒めてくれるやろ』 って褒めてもらった1回だけです あとはあれがダメ、ここがアカンばっかでした でも面白いことにこんな先生にお仕えしてたら先生の人間臭い面もたくさん見えたりなんかして、面食らった事も多いですよ 魚の活け造りが苦手で普通のお刺身は平気な事、実家にドライブに見えたとき時実家の飲食店に飾ってあった鹿の頭の剥製を見て 『かっこいいな』とか喜んでおられたり、他にもまだあったし『ん?持ってきましょうか?』と言った時は目を丸くして『どんな山の中や?』と驚かれていたこと 生家にはクマの毛皮も在ったんですけど、これはしゃべる機会はありませんでしたけどね♪ ただし師の名誉のために、腰から下の話はいたしませんけどね 私たちにはおっしゃる事はありませんでしたけど米沢先輩やその奥さんには 『あいつらは高校生らしい学年だった』 とおっしゃっていたと後で聞きました 私達の学年は数もそう多いほうではありませんでしたけど、面白い連中がいました 電車の駅で学生が893に傘でシバかれてると通報が会った 警察官が駆けつけると傘でシバいてたのは先生でシバかれてたのはクラブをサボってた学生だったって笑い話もあります それでも、私たちは先生には慈しんでいただきました 公正な鶴ちゃん、クールな井上のこーちゃん、陽気な光昭君、毛深い川尻どんその他・・・ この皆は同期生だけど少し年上のように見ていました 私より少し大人っぽかったんでしょうかね??? この先生が一番大きかった教えは 『お前が先輩たちによく面倒見てもらったやろ? 嬉しかった事を後輩にもしてやったらええねや♪』 ってことでした 何もそれらしい事はできませんでしたし、出来ないうちにご他界なさってしまいましたけど・・・ というわけで、取り留めのない大東亜戦争開戦日の随想でした お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年12月08日 19時39分35秒
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