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待合いで雑誌をくっていたら
「日常生活の中の差別」のコラムに目がとまった 今回はある「個性」を持ったこどもについてであったが 私が共鳴したのは その部分ではなく 「個人因子」と「環境因子」により 受けなくてもよかったかもしれない 2次差別に合うことがあり それがこどもの成長に大きく左右する と、大意はこうだ。 否、違ったかもしれない。 けどざっと目を通し 私はそう読みとった。 いじめをするこども達は いじめられるこどもに原因があるという 私はそれを否定しない 私の中にもいじめたい願望はあるし いじめられる側にまわるよりは 多勢の中でぬくぬくといじめる側でいたい いじめるこども達は 自分が「環境因子」であり 「人間を殺してもよい環境を作り出す因子」である ということに気付かない そして間違いなくおとなでも 真綿で首を絞めるような 「環境因子」になっていることに 気付かない人も多く 悲しいことに こどもを教える立場の人が それをちゃんと教えられない学校もある 幼なじみと同期生のその後をたどったら 精神障害を煩っている人が 予想外に多くて驚いた けれどあの頃を思い出すとわかるような気がする いじめがなかったわけではない 仲良し集団に入れたくない そんなことはありふれていたし 障害のある子を蹴っ飛ばす子もいた それでも 「死ね!」とはみんな言わなかったし 「やりすぎや!」と止めに入るヤツもいた ・・・逆に言い返せば 純粋なこどもで在ったが為に おとな社会に適応しきれず 精神に異常をきたしたのではないかと考えるのである そう、あの頃はまだおとな社会があり こども社会があった ジャイアンもスネ夫ものび太も 今では全て問題児だがキャラクターとして生きていけた そしてその母達も胸の内はともかく 表面的にはよその子の個性を認めていた けれど早熟で処世術に長けていれば ”はためからは”生き安いであろう生活を 手に入れやすいことを知ったおとな達は こどもをおとな化しようとした その結果「環境因子」は こどもであっても個性を排除する動きに出るのである 集団社会において個性は必要ないから。 「バカの壁」には 「個性は元々備わっているものなのだから そんなモノを伸ばす必要はない」という件がある 共同生活の中ではむしろ個を消す必要があるのにと 一見逆説的なのだが 個性なんてものは 最初から認められているものなのである その上で互いにうまくやっていくにはどうすればいいか 探り合えばいいということなのだ 森毅が一昔前の本に書いていた この土地では 教授もやくざも金持ちも貧乏人も 同じ様に話し、笑い、情報の交換があった それが今では皆囲みを作り それぞれの中で暮らそうとしている、と。 「てるてる家族」での逸話は どこそこにでもある話ではないが 全くの夢物語でもなかったのである。 先日 医師会のエライ先生が 自家用セスナの話をした後で 100均のこども用ピンク傘を持ち 裸の大将のまねをした後、 「かい~のぉ」と私達を笑わせ出ていった 私の友人がわざわざこの土地を選んで来てくれるのは 「環境因子」にまだ そんな空気が残っているからであるなら まだまだ世の中は捨てたモノではないのだけれど お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005/02/22 11:02:48 PM
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