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<哲学という学問の可笑しさ> 「哲学を学問として研究する事がイコール哲学・思想では無い。」 面白い事に哲学に関する入門的文章には一様に著者自らがその類の文章 を書いている傾向があって、余程過去においてそう指摘され続けてい たのだろうと推察される。それはその通りだと思うのだが、そこから少 し専門性を帯びた個や社会問題の考察に入っていくと結局「言葉」とし て覚えた原理に準じた「である的」表現か、逆に「ポスト・・・的」な 技巧に振れた表現になり、その表現自体が目的とするものへの肯定や批 判を一般化出来ずに受けて側の生活実感に結びつくものに成り得ていな い印象を受けることが多い。 「哲学が難解なのでは無く、哲学について書かれた文章が消化不良で不 親切なのだ。」という類の表現もよく眼にする。 「言い訳ばかりしている学問」と考えると何か可笑しいし。
<私の哲学の様だったもの> 二十歳前後の頃、生意気に「生きる意味」とか、至るべき「真理」み たいなものが在る様な気がしてもがいていた時期、有りがちだが「哲学」 という響きに惹かれた事があって、今思えば「哲学概要を覚える」作業 を暫くしていた。それでもそれなりに先達の言葉は琴線に触れる事があ って救いにはなった覚えがある。ただ、内省に偏り、自分を社会との繋 がりの中で捉えようとする作業が欠けていた。当事から労働運動に関わ っていたが、自分の政治的なものを絶対化した思考の方向性は理性的に 自分を捉える事を阻害し、活動家に成り切れない人間には矛盾・パラド ックスを生む事になった。今になって考えると、労働運動の中で国家に ついて思う事もあっただろうに何故ホッブズあたり以降の近代社会・国 家形成に寄与した思想に興味を抱かなかったのだろうとも振り返る。た ぶん表面的な思想の上に自分を主人公として投影した私小説的な「哲学 の様なもの」に酔っていのだろう。当事はまだ「マルクス的なもの」は 知的な匂いがしたし、「実存主義のようなもの」は格好が良かったのだ。 まあ、それくらいのレベルでは当然その後の生活に追われた人生におい て哲学を意識する事は少なかったが、解釈の正否はともかく、この時に 身に付いた「人間と自分を少し諦める」という思考が現在まで私の楽天 的な性質を支えて、マアマアの半生を送れてきたのだなとも思う。
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最終更新日
2009.05.31 23:54:18
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