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<復活した哲学への渇望> 「飯の種にならぬ」という意味で親不孝の学問とも揶揄されてきた 「哲学」だが、実際には現在の自然科学の発展、社会改革・近代国 家の成立、文学・芸術の背景にも大凡「哲学」が基盤となっている 事は「歴史」として認識していなければいけない事だ。 それらの先達の思想に接して批判的・肯定的に思惟して、それを一 般化するまでの道程そのものが「原理」を考える方法の一つだと思 う。一つの問題をいくら考え続けても人の世には存在しない「真理 という幻」に到達することは無い訳だが、どこかで実験的に実践、 あるいは実践する人間に加担して悩みながらも社会との接点を持ち、 自分なりの決断を下す事が一般化という事なのだろう。だがこの時 点で「真理という幻」を見た様な錯覚に陥ると人間は不幸へ向けて 走り始める。そこで哲学は死んで「宗教」や「信念」に形を変える らしい。哲学は「真理」を排除して人や社会の「原理」を考える 際の方法論だと思うが、宗教・信念はそれ自体が場合によっては理 性的に死や戦争、破滅を肯定する事もある。中世から近代・現代へ 至る国家感と植民地争奪戦も、社会主義の崩壊も、資本主義下で暴 走して破綻した金融主義や新自由主義さえもその徒花の様に私は思 う。現実にはそれでも対立軸を失ってボロボロになった資本主義世 界とその織り成す社会の中で人は生きて行くしかない。行動しなが ら「真理というまやかし」に惑わされる事無く 「原理を」「幾層にも」「深く」「考え続ける」という哲学的思考 の重要性は時代と共に大きくなっていくのだなとここ数年思ってい る。
このところ「憲法」について考える機会が多い。また、ここ数日 の北朝鮮の暴挙と関係国の中での日本の在り様も憂慮している。観 念的、経験主義に支配された報復論と平和絶対論が飛び交う中で、 日本という国が「平和」についてこれまで真摯に考えて来なかった 事や、その具体的なイメージを持っていない事が浮き彫りにされて いる。こんな状態の下での「敵地攻撃論」と「一方的な武力の放棄 論」も、「護憲」と「改憲」も大差は無いと私は考えている。 まず平和の定義・具体的な共存のイメージを求めて哲学的に掘り下 げて行く作業が大事だなと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.01 02:15:13
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