テーマ:徒然日記(23462)
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太宰治生誕100年だという。思えば、太宰は一人の作家として私が一 番作品数を読んだ作家で、しかもそれは中学・高校の時期の数年間だ けに集中をしていて、自分の中の漠然とした「疎外感」と「不安」 に照らし合わせながら熱中して読んでいた覚えがある。高校の卒業文 集にも「人間失格」の一部を気取って引用したのだが、それは今にな っても思い起こす程に恥ずかしく、それこそ私の「恥の多い人生」の 中の大きな部分を占めている。 もう三十数年前の事になる。以降、太宰を再読した事は無い。
二十歳を2,3年過ぎた頃に「太宰にハマった自分」を振り返り 「熱病に酔っていた様なもの」だったという印象を友人に語った覚え がある。人間の「弱さ」「苦悩」「如何ともし難い愚かさ」は文学・ 芸術のモチーフとしては欠かせぬものだろうが、それ故に月並みに成 り易く、月並み故に「共感」されやすいという図式が人としての成長 (主体以外に取巻く環境も)と共に見えてくる。本来、人間にとって の克服の対象となる「弱さ」「苦悩」「愚かさ」が主題と成るものは、 たとえそれが「人は滅ぶ宿命に魅せられる、という性を描く耽美的シ ナリオ」でも、その先に「何か」を介在させることによる「何かしら」 の希望を見出せなければ「救いようの無い代物」になる。 芥川賞を欲しがって選考委員に画策した太宰に対し、ある高名な作家 が「次男、三男の文学」と一蹴したという話を聞いた事があるが 「うまい事を言うな」と思った。 太宰は、予見していた到達すべき「必然」である「救いようの無い代 物」に苦悩し、その苦悩する自分を「肯定的に俯瞰」することにある 種の作家像を見ていたのだと思う。多摩川上水での最後にも「月並み からの脱却」「作家生命との等価交換?」という思いがあったのでは ないか。 一見「滅びの美学」という仮面に隠された「作家としての存在」をか けた激しい情念を私は感じる。
(太宰的なもの) 抽象的な表現になるが、太宰の愛読者のもつイメージである「太宰的 なもの」は誰の中にも、私の中にも当然在る。それは芥川龍之介の 「漠然とした不安」でもあるし、ミラボー橋で聞く鐘の音でもある。 「悟性と反省」に留まるつもりなら自虐的な感傷に浸るのも良い。 命がけの太宰のテクニックには一度は惑わされる価値はあるだろう。 しかし、「文学の意義」などという大上段に構えた論点に建つと途端 に太宰の剥き出しの自己愛に矛先は向かう。純文学・私小説の解釈に もよるが、前回取り上げた村上春樹氏が芥川賞の押されない理由の一 つに「自己愛に寄り過ぎている」というものがあるらしい事を踏まえ ると「文学に求められること」と「読者が求めること」は、当たり前 だが「違うのだな」と思い知る。
多くの太宰ファンからの批判を覚悟の上で書くと、なるべく早い時期 (十代)で太宰を読み込んでおいて、その後の社会との関わりと同調 させて、批判的発展的に再読するというのは太宰読みとしてアリかな? という印象をもっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.22 02:21:28
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