テーマ:徒然日記(23462)
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「デスノート」は週間コミック誌に連載されていた頃に完読しており、 映画は2本とも以前既に観ている。昨晩のTV放送は家族で「茶々を入 れ」ながら、流れる映像を眺めていた感じだ。TVでの映画鑑賞はこう いう処が良いなと思う。
キラは英雄なのか? 犯罪者を殺しまくる事で社会に安寧は訪れるのか? 貴方なら、私なら、キラノートを使うか? 使うなら合理的に使う自信はあるか? まぁ、そんな話をしながら家内と娘二人で観ていた訳です。
映像を見ながらの直感的な言葉は短絡的な言葉の応酬になり易い。 倫理観に欠ける反社会的犯罪者など死ぬのは当然だ「的」な台詞が次か ら次へと口から出てくる。実際、映画の中では、ある時期までは犯罪者 に天誅が下りまくる爽快感を与えてくれる内容だ。少し社会と関わって 生きてみれば、そこに不条理の存在は直ぐに見て取れる世の中だ。 意識・無意識を問わず反社会的・反道徳的な行為をして平然と存在して いる人間に怒りを覚えた事のある人が殆どだろうと思う。一時的にでも 「こいつ、こいつ等、全て殺してしまえ」という気持ちが心を支配した 事は少なからずあるのが普通だ。これが実は「ごく普通の感情」だとい う認識をマズ押さえておくべきなのだろうなと思う。
映画は話の流れ上、当然だがそこで「しかし、それでも・・・」となる ここで「人間の行動は次第に負荷を求めエスカレートして云々・・・」 「人間は社会契約の中で生きている云々・・・」などという面倒臭い事 を言うのはナンセンスだろう。 人間は100パーセント間違いをおかす必謬的存在だ。 であるのに、「人間は人間が不完全である事に耐えられない不完全であ り続ける存在」なのだ。故に人間はデスノートなど持っては駄目なのだ という事を私は娘達に話した。 不完全な人間が作るのだから「法」も不完全だ。 自分が不完全である存在であると認識しながらも人間として「上を向い てジタバタと足掻く」覚悟を放棄してしまったのでは種としての人類に 生まれた甲斐は無いだろう。 「ごく普通の感情」に身を焦がしてしまう人間がデスノートやそれに類 似した絶対権力など持つ事は許されないし、実際持てはしないのだ。
キラの行為は神の裁きなどでは無く、強大な武器を手にした事により開 始された個人的「テロリズム」だろう。私は全ての「テロリズム」を完 全否定する程の博愛主義者では無いが、他者よりも才能と環境に恵まれ た主人公である夜神 月(やがみらいと)は、本来は社会と対峙して足 掻きながら人としての範を示すべき人間だったのだろう。 デスノートとの出会いが「安易な道」へ彼を誘い、破滅へと導いた事を 単なるドラマ的勧善懲悪の法則と捉えるだけではこの物語の完結として は不充分なのだろうと感じた。
冬の寒い深夜に、自宅の敷居に足の指をぶつけて眩暈がする程の激痛に うずくまった。痛みを堪えながら「地球ごと滅びてしまえ!!」と意味 の無い、行き場の無い怒りと呪いが心に蔓延する。 私がデスノートを手にしたら人類は滅びるかもしれないな・・・・・
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