テーマ:徒然日記(23462)
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供養に父親の事を書こうとしたのだが、自分で思っている程に父親の生 きて来た過程を知らない事に改めて気付かされる。 思い出に出てくる父本人や、父の知人の其の都度都度の話を断片的に繋 げて語ろうと思う。 彼の人生は波乱万丈そのものだったと今更ながらに感じる。
私の父親は長野県の貧しい家に生まれた。 実家は農業と大工の兼業で、明日の米にも事欠く貧乏なのに11人もの 子沢山であった。 毎日、尋常高等小学校までの4里の道程を裸足で通い、昼の弁当を持っ ていけない時も多かったという貧しさだったという。 上から3番目だった父は妹や弟達の子守に追われ、そうでない時は家の 手伝いを遣らされて勉強等した覚えは無かったというが、喧嘩は滅法強 かったらしく、かなりの暴れ者だったらしい。 この片鱗は最後まで持っていて負けん気の強さは終生人並み以上だった と思う。 場所も時も選ばず大声で怒鳴り散らす父親に私は度々閉口した。
尋常高等小学校を卒業しただけの父は家の手伝いをしながら数年間鬱々 としていたらしが、兵隊になれば飯が食えるだろうと昭和19年に軍に志 願した。父の年代は徴兵にかかる歳では無いのだが、満蒙開拓団として 中国に渡り、現地召集という形で兵士となったらしい。 教育も金も無く、腹を減らしていた父親には他の選択肢はなかったのだ ろうと思う。
しかし、程なく敗戦。 捕虜となり収容所生活を終えて中国大陸に放り出された父には日本に帰 る術はなかった。詳しい経緯は私には解からないのだが、その後父は毛 沢東の中共軍である「八路軍」に日本人として参加する。 そこで「共産主義教育」を受け、日本に居た頃の自分の境遇の矛盾に気 がついた父は猛勉強(本人談)をし、軍の医科学校を出て中共軍の軍医 となった。 そのまま中国に残れば安住出来そうに思うが、やはり故郷が恋しかった のだろう、昭和28年(29年?)に日本に帰国する。 実は、そのまま中国に残れば文化大革命で粛清された可能性が強いので 寸前の処での帰国だったのだ。 日本に帰った父は日本で医師の資格を獲る為に学校に通ったらしいが、 経済的に続かず断念した。ここで父は、まず大きな挫折を感じたという。 さりとて、仕事を探しても「中国帰りの共産主義者」というレッテルを 貼られ公安にマークされていたので就職にも支障があったのだと思う。 故郷の小さな地方紙の新聞記者をしたり、クリーニング屋の店員になっ たり色々な職に着いたらしい。 やがて建設労働者の組合に共産党のオルグとして関わった事を切っ掛け に、自分も建設業に関わり、職人として自主自営の道を探る事になる。
私は父親が日本的手工業の職人として「モノ造り」に向いていたとは思 えない。どちらかというとガサツで大雑把であり、手先も器用ではなか ったからだ。
三十歳近くになってから職人となった当初はかなり貧乏したらしく、 私の生まれる前の第一子である女の子が生後間もなく死んだ時、母親を 病院から出す金も、赤ん坊の火葬をする金も無かったという。借金をし て母親を病院から出し、現場で余った材木で作った小さな棺桶に子供の 遺体を入れ、自転車の後ろに括りつけて火葬場まで運んだという話には 実の息子である私の胸も痛む。 その時の父と母の心象が如何ばかりであっただろうと思う。 しかし、彼は其処で負けてしまう様な男ではなかった。 彼の凄い処は、自分が仕事が出来なくとも、出来る人間を集めて自分で 請負を始めてしまった処なのだ。 (To Be Continued…) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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