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Uooの三日坊主Diary

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2007.02.18
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カテゴリ:礼拝メッセージ
今日の礼拝でのメッセージ。
先月からマルコの福音書を最初から解き明かしていただいて、
今回は第4回目。

重い皮膚病を患った人が、イエスに近づいて言いました。
「みこころなら、わたしを清めることがおできになります」
イエスは深く憐れんで、彼に触れ、たちまちその病は癒されました。
このことを誰にも言わないようにと、厳しく彼を戒めたイエスでしたが、
癒された人は大いにこの出来事を言い広めたために、
イエスはその場所では働きをすることが出来なくなってしまいました。

というのが、マルコの福音書1章40~45節の概要。

「イエス様が、重い病気を癒してくださった!ハレルヤ!」
ということに終始するのではなく、全く別の視点を
この箇所から教えられました。

43節にある、「その人を立ち去らせようとし」という言葉の原語は、
殆ど「追い出した」という意味に近いそうです。
そして、41節にある、「イエスが深く憐れんで」とある箇所は、
数ある写本の中で、一番多い訳がそれだったために採用されただけで、
その次にある訳は、なんと「怒りに満ちて」という意味だとか。

「憐れむ」と「怒りに満ちて」では、正反対に思えますよね・・・

この「重い皮膚病」とは、改訂前の新改訳聖書では「らい病」と訳されていました。
現代のらい病とは違うことが証明され、誤訳ということで表記が変わりました。
現在の新改訳聖書では、「ツァラート」と表記されています。

聖書の時代、ツァラートを病む人は、人々の近くに行くことは赦されず、
ユダヤとサマリアの国境にある、専用のエリアに住まわされていました。
その場所に、親戚の者が置いていく食事だけをたべて、生活しなければいけなかったのです。
そして、人々の間では、「自分は汚れている!」と叫ばなければなりませんでした。
殆ど「死人」として扱われていた彼らが、
イエスに近づき、話をするなどということは、到底赦されることではなかったのです。

「御心(みこころ)ならば、わたしを清くすることがおできになります」
別訳では、「あなたの意思一つで」と書かれているそうです。
「イエス様、あなたの力で、あなたの思いだけで、私は癒されます!」という彼の信仰。
しかし逆にいえば、
「あなたの心一つで、病気が治らないこともある。私はそれを受け入れます」
というのが、この人の信仰だったのではないでしょうか。

イエスは「怒りに満ちて」彼に触った。
それは、ツァラートである彼がイエスに近づいてきたことに対する怒りなのか?
決して違います。なぜなら、イエスは自ら彼に触れたのです。
歓迎し、「深く憐れまれ」たのです。

しかし、その後に続くイエスの行動は、
彼を「厳しく戒め」、「追い出し」たのでした。

ヨハネ6章には、生まれつき目の見えない人が、イエスによって癒され
目が見えるようになったという記事があります。
この人は癒された時、40歳くらいだったといわれます。
この癒しによって、イエスはユダヤ人たちから糾弾されます。
「安息日に癒しを行なった!律法違反だ!」というわけで・・

癒された彼自身がその後どうなったのか、わかりませんが、
果たして、本当に、肉体的に幸せになったかどうかは分かりません。
生まれつき何十年も目が見えなかった人が、急に見えるようになった場合、
その精神的な混乱は相当なものだそうで、実際に自殺してしまったという実例もあるそうです。

癒しの表面ではなく、背後にあるものを私たちは見なければなりません。

ツァラートが癒された場合、もの凄く大変な儀式をしなければなりませんでした。
それは、もとツァラートであったという確認でもあります。
彼らがその後、本当に普通の幸せな生活が出来たかどうかは分かりません。

イエスが抱いた怒りは、まさにそこに向かってのものでした。
見ていたのは、罪そのものです。
罪こそが、全ての災いを生み出すからです。

彼は、ツァラートを癒されて、喜んで出ていったのでしょう。
「誰にも言わないように」とイエスに厳しく言われていたのにもかかわらず、
それを言いふらしてしまいます。
イエスがそのような注意をしたのは、
それを聞いて、イエスの働きを迫害しようとするものがいるから・・

彼のしたことは、「喜びを多くの人と分かち合いたい!」という気持ちからでしょう。
それ自体は、決して悪いことではないのに、
主の言葉に聞き従わないでそれをしたなら、最悪の結果を招くのです。
その場所でのイエスの働きを、完全に止めてしまいました。

この罪に対して、主は怒りに満ち、戒め、追い出されました。
人間にではなく、罪に対しての怒り・・

私たちは、病気から癒されたということにのみ目を向け、それをテーマと思います。
しかし、イエスは全く別のことを見ています。
罪そのものに目を向け、取り扱われます。神と私たちの視点が、一体どれだけ違うか!

自分はまあまあ、良いことをしてきたと自負できるかもしれないが、
神の視点で見るなら、ちょっとくらいいいことをしただけで、
自分の罪が消えるものではありません。
神は、私たちの中にある罪を怒り、糾弾します。
しかし、同時に、十字架に一人子をおつけになるほど、人間を愛されているのです。

私たちは、自分で罪をコントロールできません。
それは、自分も、周りの人々もズタズタにします。
私たちは、癒しにしか目を止めず、十字架に興味を示しません。
私たちの根源にある罪、それを贖うために、
神ご自身が、命を投げ出して、私たちを救ってくださった、
そこに目を留めるべきなのです。

あなたは、何に困惑し、悲しみ、絶叫しているのか。
怒るべきところは、そこではなく、そこにある罪に対して、
キリストと共に怒りを持つということが求められているのです。

キリストは、私たちの中にある罪に対して怒り、
私たちに対しては、救いの手を差し伸べられます。

今までと同じ視点でものを見るなら、その悲しみ、苦しみは変わりません。
しかし、キリストに似るものとされ、同じ視点を持つなら、
内側から変えられていくでしょう。

私の中にも確実に存在する、この恐ろしい罪のために、
神様が十字架にかけられたことに・・・ただ感謝したいと思います。






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Last updated  2007.02.18 17:25:21
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