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Uooの三日坊主Diary

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2007.02.28
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カテゴリ:礼拝メッセージ
この日曜は、試験で礼拝に出席できませんでしたが、
ダンナさんが、礼拝メッセージを録音してきてくれました☆

イエスが再びカペナウムに来られると、
大勢の人がイエスのいる家に集まってきた。
イエスが御言葉を語っておられると、4人の人が
中風の人を板に載せて運んできた。
群衆に阻まれてイエスの近くに寄れないので、
なんと彼らは屋根をはがして病人の床をつり降ろした。
それを見て、「子よ、あなたの罪は赦される」とイエスが言った・・・

というのが、マルコ2章1~12前半のあらすじ。

イエスがいた家はペテロの家だろうと云われています。
その場所で、イエスは「御言葉を語っておられ」ました。
奇跡を、まだ、そこでは行なってはおられません。
人々は、キリストの言葉に耳をかたむけるようになっていたのです。
それは神の視点でものを見るという事。

神の視点で見るなら、私たちの人生は全て、今までとは全く違って見えます。
今までは、罪というフィルターでさえぎられていて見えなかったのです。
私とは何か?
相手とは?
社会とは?
自分が勤める会社とは?
全てが変わって見えてくる、いや、本当のことが分かってくるのです。

事件は3節で起こります。
中風を病む人が、戸板に載せられ、4人の人に運ばれてきました。
あまりにも大勢の人で、イエスに近づくことも出来ないとみた彼らは、
屋根をはがして病人をつり降ろすという大胆な行動に出ます。

この当時の家は、外に階段があり、粘土で作られていたそうです。
壁は頑丈ですが、屋根は、木が渡してあって草がおかれ、
泥をぬってあるというような簡単な造りだったとか。
イエスがおられるだろうというあたりの屋根をベリべりと取って、穴をあけ、
そこから戸板に乗せた中風の人をつり降ろしたのです。
この4人の行動を見たイエスは、
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。
これは、誰も思いつかない答えであったでしょう。
「あなたは癒される」と言ったのでもなければ、
屋根を破るという乱暴な所業に「何をするんだ!」という言葉でもない。

みんな、不思議に思う中で、律法学者たちはすぐに反応しました。
「神を冒涜している!」と。
罪が赦されるか否かということは、ユダヤ人にとってとても大切なことだからです。

世界の殆どの宗教と文化のテーマは、「罪の赦し」についてです。
罪の赦しとは、刑務所に行って出てくるというようなことではありません。
私たちは皆、悪いことをしなければ穏やかに人生が過ごせると思っています。
しかし、その人生は本当に穏やかですか?と問われるのです。

そこそこ自分を良い人間だと自負し、生きていたのに、
ある時、「とんでもないことをしていた」と気づく時があるかもしれません。
一体、私たちの問題がどこにあるのか?と,探る時に気づくのは、
聖書の教える「罪」という概念です。
私たちの不幸の原因は、神という存在を認めなかったということにあるのでは,と
気づいていった人たちによって、今の社会が築かれていったといえるでしょう。

学校、病院、保険制度でさえも、キリスト教会から生まれたものです。
罪のために神から離れていた人生を、少しでも、
社会の底辺にある人たちに還元したい、
あるいは病気の人が癒されるために何をしたらいいだろう、と考えて
それらが作られていったと考えても過言ではないでしょう。
(教会学校というのも、貧しい子供に教育を提供しようというのが発端だったそうです)

「あなたの罪は赦される」
神様に、自分の罪が赦されるということは、これで全ての問題が解決するのです。
その解決を誰が与えてくれるのか?それが全ての人の関心でした。

神にとりいるために、律法学者たちは、多くの儀式をし、
多くの時間、聖書を読むことに費やし、多くの祈りを捧げました。
そうしてきたのに神に出会うことが出来ないでいるのに、
なぜこの人は「罪を赦す」などと言えるのか。彼らは憤慨しました。

しかしイエスは、
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と、
中風の人をお癒しになりました。
癒しが目的ではなく、ご自分の権威を私たちが知るために、この癒しが行われたのです。

私たちは「権威」の下に生きています。
会社で、トップに従っていく。家庭では、父親が中心になって家庭を作ります。

では、私たちの人生の権威者とは誰か?
イエスは、「私に従いなさい。私に権威があるからだ」といわれるのです。
権威者とは、横暴に見えるかもしれません。
私たちは、権威とは、トップダウンなものと考え勝ちです。
しかし決してそうではありません。
聖書には夫婦の関係をこのように書いています。
「妻は夫に従いなさい。夫は妻を自分の体と同じように愛しなさい。」

イエスは、「4人の人の信仰を見て」、中風の人に言いました。
中風の人を見て言ったのではないのです。
中風の人を連れてきたのはこの4人の人。
そして救われたのは、中風の人でした。

この4人の人とは、まさに教会のことを語っているのでしょう。
教会で私たちが礼拝を捧げられる恵み。
この恵みはどこから来たのでしょうか?
私たち一人一人のために、どれだけの人が祈ってくださっているか。
背後にどれだけ、世界中で祈られているかということなのです。

中風の人は、4人の人の信仰によって救われました。
私たち一人一人の救いは、背後にある、
多くの人の祈りによって成されていることを忘れないようにしたいと思います。











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Last updated  2007.02.28 21:28:12
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