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カテゴリ:礼拝メッセージ
今日の礼拝のメッセージは、マルコ3章7~19節より、
「神の国をしらせるために」豊田みのり教会にて 井森牧師のメッセージ 弟子達と共に、湖の方に立ち去られたイエス。それにおびただしい群衆が従っていきました。 イエスは、群集に押しつぶされないため、弟子達に小舟を用意させます。 それは、イエスが多くの癒しを行なったことを聞いた病気に悩む人々が、 彼に触れようとして押し寄せたから。。 その後イエスは山に登り、12人の弟子を任命します。 ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、 アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、そしてイスカリオテのユダ。 今までイエスは、決められた範囲で伝道していました。 ここにきて、多くの場所から、人々がイエスに会いにきたのです。 イドマヤ、ティルス、シドンとあるその地名は、その距離100KM以上。 そんな遠い場所から、人々は歩いて、イエスに会うためにやってきました。 彼らは、イエスが病気を癒してくれることを期待してやってきました。 「救い主」と捉えていたでしょう。 ところで、救い主・・メシヤとは何でしょうか。 救い主と聞いたときに、普通人々は何を思い浮かべるか。 100%の人が、自分の病気を治してくれるなど、自分の願いをかなえてくれる人だと答えます。 イエスの生きたこの時代のユダヤは、ローマの圧政下にあり、ローマを倒し、 自分達自身での自国の支配を実現する人をメシヤだと考えました。 当時の人々、そして私たちは、メシヤ像の誤解をしています。 私たちも、メシヤ像の確認をする必要があります。 ところで、日本の宣教状況は、大変な危機的、そして異常事態にあります。 これだけ自由に、クリスマス、母の日、バレンタインなど、 宣教のチャンスが多く許されているのにかかわらず、 牧師の数は数十年後には半分以下になるといわれ、 クリスチャン人口は1%の枠を出ることがありません。 イスラム圏でさえキリスト教会があるのに! (そこではクリスチャンであることは命をかけることです) いがみあっている教団教派は一つになるべきだ、弱い教会が集まって強くなるべきだ、 という議論が交わされます。しかしそれは本当でしょうか? 日本の宣教の悲惨さ、異常さ、これこそ、神のみこころではないのでしょうか。 今、私たちは、「どうしたらいいのだろうか?」ではなく、「これは一体何なのか」と考え、 問い直すことが最も求められているのではないでしょうか。 今こそ、本当のメシヤ像を確認するべきだという、クリスチャンへの警告なのです。 私たちクリスチャンは、「罪・神・救い」の学びをしてきましたが、 実のところ、よく分かっていないのです。 救い主とは、「私の願いを聞いてくれる人」という理解をもし私たちがしているなら、 イエスはこう言うでしょう。 「あなたのメシヤ像を人に伝えるな。それは間違っている」 イエスが何を行なってきたのかを、思い出してみましょう。 全身全霊をかけて、人々に奉仕し、献身し、人々に非難され、蔑まれ、 最後には十字架にかけられました。 これがメシヤの本当の姿です。それは、普通には信じられないこと! 人々に徹底的に蔑まれた、哀れな姿・・・ 人は願ったことがありません。このようなメシヤ像を。 それは罪があるからです。 出来れば、自分の思い通りになってほしいと考えるように、人間は出来ているのです。 イエスは、 「わたしと共に行きましょう。共に歩くなら、私と同じように献身が出来、 必要なら十字架にさえ人々のためにつくことが出来るようになる」と言われます。 しかしそれは、誰も望まないこと。 私たちは今、全く変えられたメシヤ像をもって、主を見つめなければいけません。 この世は、誰もが自分中心の生き方をしています。 しかしこの世で、イエスのように生きたいと願う人が一人でも増えていけば・・・ この社会は変わります。 先人達は、こうしたら社会が良くなると考え、多くのことが行なわれてきましたが、 何一つ良くなっていません。 奉仕・献身・十字架が喜びとなる人生。あなたもイエスと共に、それをすることが出来ます。 私たちにとっては、イエスはお手本です。 イエスは、「私を見つづけなさい、そのようにしてあげるから」と言われます。 そして12人の弟子を選ばれました。 キリスト教会が、交わりから始まったのは、大きな意味があります。 一人で始めたのではありません。 弟子を呼び集められ、イエスのそれからの3年は、弟子の訓練のためにありました。 イエスは、メガチャーチを建てようとされませんでした。 わずか12人の訓練のためだけに、その3年を費やされたのです。 そしてそれは、交わりから始めました。 シモン・ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、漁師、身分の低い職業といわれていました。 マタイは、収税人で、誰からも嫌われていました。 熱心党のシモン、この熱心党とは、決してローマとは融合しない、 つまり収税人のマタイとは全く反対の立場でした。 このように、12人の弟子はそれぞれ全くバラバラの人々。 普通は、できれば自分の気の合う、自分を尊敬し、 仲のいい人々を集めた方がいいのではないでしょうか。 自分と気があう、あわないではなく、「神によって選ばれた人」というくくりで相手を見ること。 この人とどういうパートナーシップがとれるかを考えること。 「自分中心」ではなく「主の選び」に目をとめること。 そうです、この12人の中には、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダも含まれていました。 自分中心ではない世界を、このような形でイエスは見せてくださるのです。 私たちは、原点に帰って、正しいメシヤ像をしっかりもって、 罪とは? 神とは? 救いとはどんなに凄いことなのか? を改めて考えていくこと、それこそが、日本の現状に対する、 最も大切なことなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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