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カテゴリ:礼拝メッセージ
先日の日曜に語られた礼拝メッセージです。
第11回目。マルコの福音書4章1~20節。 「たとえで話される主イエス1」 ***イエスの語られた、種まきのたとえ話。 ある種は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ある種は、岩地に落ち、土が浅いのですぐ芽を出したが、根がないので枯れてしまった。 ある種は、茨の中に落ち、茨が伸びて芽をふさいでしまったので実を結ばなかった。 ある種は、良い地に落ち、30倍、60倍、100倍の実を結んだ。*** いつものようにイエスが群集に向かって話しをし始めました。 12弟子とその他の弟子たちが回りをかこんでいます。 (ルカの福音書では、近くにいる人々を皆、弟子と書いていますが、 マルコはもう少し厳密で、12人だけを弟子と書いています。) たとえ話をされた後、14節からはその「解き明かし」です。 イエスが「たとえ話」と「解釈」をするというのは実はめずらしいこと。 イエス自身による注釈は、他ではあまりありません。 15節~20節を読むと、たとえで語られた「土地」とは、人の「心」のこと。 「種が蒔かれる」とは、「聖書の言葉を聞く」ということです。 4種類の土地のことが語られます。 この時代の種まきは、1個1個丁寧に蒔くというようなことではなく、 人がパーッとまいたり、あるいはロバに種の入った袋を負わせ、 その袋には穴があいていて、ロバが歩くと種が落ちるというようなものでした。 そのような蒔き方なので、当然畑ではない、道(アスファルトのように固い)や 岩地(岩盤の上に砂が少しあるような)、いばらの中などに落ちる種もありました。 4種類の土地は、それぞれ誰なのか?私はどの土地か? ある学者は、そういうことではなく、 最初は、固い道のようであったが、失敗を重ねつつも、 だんだん良い土地に変えられていく、つまり「成長」を現しているのでは、 と言っています。 日本は、まさに「耕されていない土地」なのでしょう。 「あなたは罪人だ」というメッセージの前に、 「あなたは神に造られた最高の作品である」という理解をさせること、 それこそが「耕し」です。 実をならすためには、良い土地を作ることが必要なのです。時間をかけて・・・ ところで、このたとえ話や解き明かしについては理解できても、 イエスの言葉でどうしても分からない箇所があります。 10-12節 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちが たとえについて尋ねた。そこでイエスは言われた。 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、 外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、 『彼らが見るには見るが、認めず、 聞くには聞くが、理解できず、 こうして、立ち返って赦されることがない』 ようになるためである。」(新共同訳聖書) 弟子達が種まきのたとえ話について意味を尋ねたら、 上のようにイエスが言ったのです。 『』内は、イザヤ書の引用です。 この後、26節から、そして30節からも他のたとえ話が 語られています。 ところで「たとえ話」とは、いったい何のためにするのでしょうか。 たとえで話さざるを得ない状況があります。 30節からのたとえは、「神の国」についてですが、 「神の国」を実際に見せられないので、たとえで話すのです。 そして、たとえ話とは、曖昧なものです。 例えば、「○○さんは、スマップの中居君に似ている」と言った場合、 本質を否定しつつ、似ていると言っているのです。 イメージは伝わりますが、そのものではないということです。 「たとえ」は、分かりやすくすると同時に、分かりにくくもしています。 解釈なしでたとえ話を聞くと、全く違う取られ方をしかねません。 3節からの、種まきのたとえ話。 当時、食料事情については皆の関心事でしたから、 全ての人によく理解できる話だったでしょう。 イエスは、種まきの「あたりまえのこと」を話しました。 皆にとっては、「・・・・・それで?」という感じだったことでしょう。 多くの人は、その意味を考えたでしょうが、分からないのです。 「外の人々には、すべてがたとえで示される。 彼らが、それを理解しないために・・・・」とイエスは語ります。 「神の国の秘密」と、新共同訳では訳されているこの言葉、 新改訳聖書では、「奥義」と訳されています。 奥義とは、謎のことです。 新約聖書はギリシャ語でかかれていますが、もともとはアラム語から訳されています。 イエスが実際に語っていたのは、アラム語でした。 (十字架の言葉、エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ、はアラム語です) 現代では、その文字と文法は分かっているものの、使われていません。 アラム語からギリシャ語に翻訳されるときに、 少し厳しい言葉への訳になったようです。 たとえを語られたとき、それが何のことかすぐにわかる人たちと、 全く分からない人たち、に分かれます。どこで違いが出るのでしょうか。 10節を見ると、イエスが一人になられた時に弟子たちが尋ねに来た、とあります。 主のところに来た一団があったのです。 そしてそれは、いつもイエスに付き従っている人々でした。 ある同じ環境の中だけで理解できる状況というものがあります。 そのお互いだけがわかる言葉。。。 プロのミュージシャンが、レコーディング中に 「レコーディング行ってくる」と言って席を外しました。 レコーディング中に、レコーディングに行くとはどういうことか? レコーディング、すなわち「おといれ」というわけで、 トイレに行ってくるという意味なのだそうです。 神の言葉は、自分で聖書だけ持って、自分だけで読んで 暗唱するほどに読み込んだとしても、分からないのです。 研究者として、深く聖書を学んでいながら、クリスチャンでない人々がいます。 神の奥義は彼らには分からず、永遠に謎のままで終わります。 教会で読まないので、本当の意味で理解することが出来ません。 教会とは、イエスを信じる人々の群です。 共に礼拝を捧げ、交わりを通し、学びを通して、 神のためにする奉仕の中で、 積極的に宣教することを通して、 神の祝福、恵み、それらを実感していくのです。 世の人々にとっては謎です。 しかし、あらゆる教会の目的を通していく中で、 見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになります。 イエスは、「彼らは最初から滅ぶ」という意味で それを語ったのではありません。 9節「聞く耳のある者は聞きなさい」といわれました。 「聞く耳を持って聞け!聞く耳を持って聞かない人たちが多くいるのだ。 心を開いて、わたし達と共にいって、 ありとあらゆる主の働きを通して、「神の国」を見よ」 主は、いろんな角度から「神の国」を語ろうとされます。 私たちは、日々の信仰生活の中で聞かなければ、 それを感ずることは出来ないでしょう。 わたしたちの為す全ての奉仕の中に、 神の約束が、神の業がひそんでいるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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