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Uooの三日坊主Diary

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2007.05.02
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カテゴリ:礼拝メッセージ
先日の日曜に語られた礼拝メッセージです。

第11回目。マルコの福音書4章1~20節。

「たとえで話される主イエス1」

***イエスの語られた、種まきのたとえ話。
ある種は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
ある種は、岩地に落ち、土が浅いのですぐ芽を出したが、根がないので枯れてしまった。
ある種は、茨の中に落ち、茨が伸びて芽をふさいでしまったので実を結ばなかった。
ある種は、良い地に落ち、30倍、60倍、100倍の実を結んだ。***


いつものようにイエスが群集に向かって話しをし始めました。
12弟子とその他の弟子たちが回りをかこんでいます。
(ルカの福音書では、近くにいる人々を皆、弟子と書いていますが、
マルコはもう少し厳密で、12人だけを弟子と書いています。)

たとえ話をされた後、14節からはその「解き明かし」です。
イエスが「たとえ話」と「解釈」をするというのは実はめずらしいこと。
イエス自身による注釈は、他ではあまりありません。
15節~20節を読むと、たとえで語られた「土地」とは、人の「心」のこと。
「種が蒔かれる」とは、「聖書の言葉を聞く」ということです。
4種類の土地のことが語られます。
この時代の種まきは、1個1個丁寧に蒔くというようなことではなく、
人がパーッとまいたり、あるいはロバに種の入った袋を負わせ、
その袋には穴があいていて、ロバが歩くと種が落ちるというようなものでした。
そのような蒔き方なので、当然畑ではない、道(アスファルトのように固い)や
岩地(岩盤の上に砂が少しあるような)、いばらの中などに落ちる種もありました。

4種類の土地は、それぞれ誰なのか?私はどの土地か?
ある学者は、そういうことではなく、
最初は、固い道のようであったが、失敗を重ねつつも、
だんだん良い土地に変えられていく、つまり「成長」を現しているのでは、
と言っています。

日本は、まさに「耕されていない土地」なのでしょう。
「あなたは罪人だ」というメッセージの前に、
「あなたは神に造られた最高の作品である」という理解をさせること、
それこそが「耕し」です。
実をならすためには、良い土地を作ることが必要なのです。時間をかけて・・・

ところで、このたとえ話や解き明かしについては理解できても、
イエスの言葉でどうしても分からない箇所があります。

10-12節
イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちが
たとえについて尋ねた。そこでイエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、
外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち返って赦されることがない』
ようになるためである。」(新共同訳聖書)

弟子達が種まきのたとえ話について意味を尋ねたら、
上のようにイエスが言ったのです。
『』内は、イザヤ書の引用です。

この後、26節から、そして30節からも他のたとえ話が
語られています。

ところで「たとえ話」とは、いったい何のためにするのでしょうか。
たとえで話さざるを得ない状況があります。
30節からのたとえは、「神の国」についてですが、
「神の国」を実際に見せられないので、たとえで話すのです。

そして、たとえ話とは、曖昧なものです。
例えば、「○○さんは、スマップの中居君に似ている」と言った場合、
本質を否定しつつ、似ていると言っているのです。
イメージは伝わりますが、そのものではないということです。

「たとえ」は、分かりやすくすると同時に、分かりにくくもしています。
解釈なしでたとえ話を聞くと、全く違う取られ方をしかねません。

3節からの、種まきのたとえ話。
当時、食料事情については皆の関心事でしたから、
全ての人によく理解できる話だったでしょう。
イエスは、種まきの「あたりまえのこと」を話しました。
皆にとっては、「・・・・・それで?」という感じだったことでしょう。

多くの人は、その意味を考えたでしょうが、分からないのです。

「外の人々には、すべてがたとえで示される。
彼らが、それを理解しないために・・・・」とイエスは語ります。

「神の国の秘密」と、新共同訳では訳されているこの言葉、
新改訳聖書では、「奥義」と訳されています。
奥義とは、謎のことです。
新約聖書はギリシャ語でかかれていますが、もともとはアラム語から訳されています。
イエスが実際に語っていたのは、アラム語でした。
(十字架の言葉、エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ、はアラム語です)
現代では、その文字と文法は分かっているものの、使われていません。

アラム語からギリシャ語に翻訳されるときに、
少し厳しい言葉への訳になったようです。

たとえを語られたとき、それが何のことかすぐにわかる人たちと、
全く分からない人たち、に分かれます。どこで違いが出るのでしょうか。

10節を見ると、イエスが一人になられた時に弟子たちが尋ねに来た、とあります。
主のところに来た一団があったのです。
そしてそれは、いつもイエスに付き従っている人々でした。

ある同じ環境の中だけで理解できる状況というものがあります。
そのお互いだけがわかる言葉。。。

プロのミュージシャンが、レコーディング中に
「レコーディング行ってくる」と言って席を外しました。
レコーディング中に、レコーディングに行くとはどういうことか?
レコーディング、すなわち「おといれ」というわけで、
トイレに行ってくるという意味なのだそうです。

神の言葉は、自分で聖書だけ持って、自分だけで読んで
暗唱するほどに読み込んだとしても、分からないのです。

研究者として、深く聖書を学んでいながら、クリスチャンでない人々がいます。
神の奥義は彼らには分からず、永遠に謎のままで終わります。
教会で読まないので、本当の意味で理解することが出来ません。

教会とは、イエスを信じる人々の群です。
共に礼拝を捧げ、交わりを通し、学びを通して、
神のためにする奉仕の中で、
積極的に宣教することを通して、
神の祝福、恵み、それらを実感していくのです。

世の人々にとっては謎です。
しかし、あらゆる教会の目的を通していく中で、
見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになります。

イエスは、「彼らは最初から滅ぶ」という意味で
それを語ったのではありません。

9節「聞く耳のある者は聞きなさい」といわれました。
「聞く耳を持って聞け!聞く耳を持って聞かない人たちが多くいるのだ。
心を開いて、わたし達と共にいって、
ありとあらゆる主の働きを通して、「神の国」を見よ」

主は、いろんな角度から「神の国」を語ろうとされます。
私たちは、日々の信仰生活の中で聞かなければ、
それを感ずることは出来ないでしょう。

わたしたちの為す全ての奉仕の中に、
神の約束が、神の業がひそんでいるのです。








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Last updated  2007.05.02 10:01:55
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