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Uooの三日坊主Diary

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2007.05.12
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カテゴリ:礼拝メッセージ
明日は日曜~~~!!!
体調万全で礼拝出席に臨みたいと思います。

先週の日曜の礼拝メッセージをアップします。
今回の箇所は、理解しにくいところが多くあって、
間違ったことを書いてるかもしれません・・・
あとで訂正するかも、です。

====

第12回目。マルコの福音書4章21節~34節

「たとえで話される主イエス2」

***“ともし火”と“秤(はかり)”、“成長する種”と“からし種”、
前回に引き続いてたとえを用いてイエスは話された***


21節から25節で一区切り、26節から32節で一区切り、
そして33、34節で結論という流れになっています。

21~25節は、2つ、否、2つ以上のたとえ話が語られています。
ともし火は燭台の上におくという話、自分の量る秤で量られるという話、
そして、持っているものはさらに与えられる、という話。
まるで物語が羅列されているかのようです。

24節「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」
とある箇所は、マタイでは違う文脈で語られています。
マタイでは「裁き」の話の中で書かれているのです。
マルコは文脈を無視して書いたのでしょうか?
いいえ、イエスはいろんな所で、同じ箇所から何度も話したのでしょう。
それで重複している所もあると考えられます。

21-25節からは、心の目を開いてたとえ話を聞くとき、生活の座の中で
キリストをあなた方は見ることが出来る、ということを教えられます。

たとえ話は、心を開かないとその意味が見えてこないのです。
「ともし火」とは何か。それは、イエス、福音、神の国、神の言葉、と
考えるとわかりやすいかもしれません。
心を開いてたとえ話に向かうなら、大きな発見をすることが出来ます。

そして、イエスは、ここで再び「聞く耳のあるものは・・・」と言われます。
分かりにくいたとえを語ろうとしているので、念押しをされているのでしょう。

秤、そして持っている人は更に増し加えられる・・・これはどういうことでしょう。
これは、生活の中で実感することがあります。
スポーツでも音楽でも、毎日毎日練習を積み重ねていくと
その技術がどんどん増し加えられていきます。
心を開きつづけ、イエスに聞き続けている人は、
何倍かの発見、恵みを受けるのです。
そうでない人は、どんどん恵みから遠ざかっていきます。

しかし、ここで語られる秤とは、違う意味のことかもしれません。
「自分の理解はこれくらい」「あの人の理解はこれくらい」と捉えることは
自分の知識を狭めます。
理解というのは、自分の経験値の中だけでなく、皆の経験値の中で深まるのです。
教会で聖書が語られることの大切さが語られているのでしょう。

26節からは、神の国についてのたとえ話です。
神の国の到来、そして完成とは、すなわち「終りの時」です。

あるノンクリスチャンが書いたベストセラーで、
「再臨を待つ人々」という本があります。
クリスチャンが、イエスが再臨されるために核戦争をしようと企てる話です。

ある団体は、年数の計算をして、再臨の日を割り出し、それに備えて準備をしています。
また、ある団体では、絶対的律法の遵守によって、再臨を待っています。

これらは全て、「神の国を完成させようとする」働きです。
イエスはたとえ話で、こう語られます。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
夜昼、寝起きしているうちに種は芽を出して成長するが、
どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、
まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る。
実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

種を蒔いたら、私たちが出来るのは待つことです。
神の国の完成のためには、受け入れて、待つ姿勢が大事だと語られているのです。
「今すべきことを、そこで為しなさい」ということです。

去年亡くなられたT牧師夫人は、ある宣教師との間に
合言葉にしていた言葉がありました。
「植えられたところで咲きなさい」
木は、自分が願ったところに植えられるわけではありません。
しかし、その場所で豊かに花を咲かせてくださる、これが神の約束です。

30節からは、種は人の手によらず実をならせることを教えています。

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
それはからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも
小さいが、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、
葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」

神の国とは、からし種のようなものだといいます。
からし種とは、ゴマよりももっと小さなものですが、
成長すると、大人が抱えられないくらい大きな木になります。
最初は惨めなものと言っていいのかもしれません。
しかし、全く違う姿になるのです。

マルコがこの福音書を書いたのは、AD60年(68年?)頃と言われます。
イエスが十字架につけられたのがAD30年ですから、
昇天後30年は経過しています。
マルコは、イエスのことを当時からよく聞いていました。
そして福音書を書いたのは、その30~40年後。
イエスの十字架、そして復活後、何が起こったかをずっと見てきたのです。

人々の心が全く変えられようとしている。
世界がひっくり返ろうとしている。
その様をマルコはまさに見ていました。

神の国はこのように成長していくのです。
人間的計算や、律法遵守などによるのではなく、
人間の心に少しずつ芽生え、変化を与えていく。
神の国は、私たちの只中にあります。そして成長しつづけるのです。







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Last updated  2007.05.12 22:35:37
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