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カテゴリ:礼拝メッセージ
第14回目。マルコの福音書5章1節~20節 (2007年5月20日)
「罪から解き放たれるために」 ***汚れた霊につかれた人が墓場から出てきてイエスと出会う。 イエスが汚れた霊にこの人から出て行くように命ずると、 その山腹に変われていた豚2000頭に乗り移り、その群は崖を駆け下り 湖へなだれ落ちて溺れ死んだ。 地域の人々はイエスにそこから離れるよう頼み、悪霊につかれていた人は イエスにお供したいと願ったが、イエスはお許しにならずに言われた。 「あなたの家族のところに帰り、 主があなたにどんな大きなことをしてくださったかを知らせなさい。」*** 4つある福音書の中で、マルコの福音書は一番短い書物です。 短い福音書の中で、この箇所については、大変多くのスペースが割かれています。 マルコがどうしても語りたかったことが、ここにあるのではないでしょうか。 ゲラサ人の地で事件は起きました。 そこは、ガリラヤ瑚の向こう側の地で、ユダヤ人がいない場所です。 それは、彼らが豚を買って生業にしていたことからも分かります。 ユダヤ人は、豚は汚れていると考えていたので、 豚のいる場所には決して近づくことはなかったのです。 その場所へ、わざわざイエスは向かいました。 人々を癒し、荒れる湖を静めるなど奇跡を行なってきたイエスは、 きっとお疲れになったのでしょう。 その地へは、休むために向かわれたのかもしれません。 2節「すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた」 彼は、その後で、イエスに向かって、「私に関係するな」という意味のことを言いますが、 一方で、「イエスを迎え」、「イエスを拝し」ているのです。 この人は、足かせや鎖でつながれていたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまうので、 周りの人はほとほと悩み果てていたことでしょう。 5節を見ると、「夜昼となく、墓場や山で叫びつづけ、石で自分の体を傷つけていた」 とあります。 彼の中にある矛盾をここに見ることが出来ます。 自分のやりたい放題にし街の人々を困らせておきながら、自分を傷つけていたのです。 9節、イエスに名を尋ねられると、 「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と答えます。 レギオンとは、ローマの最も大きな軍隊の名前でした。 ローマで最も大きいということは、当時、世界で最も大きいということです。 一人の人に、たくさんの霊がついていた、という意味です。 普通、悪霊につかれるといえば、いろんな不幸が襲ってくるなどのことを イメージしますが、ここでは、「自己矛盾」を見ることができます。 自分自身では、やりたいことをやっているのだが、 こんな自分は嫌だと言って自分を傷つける。 彼自身はイエスを礼拝したいのに、悪霊がそうさせないのです。 私たちもそうではないでしょうか。 パウロも言いました。自分には善をしたい思いがいつもあるのに それをすることが出来ない。自分のしたくないことをしている。 もはや自分ではなく、罪がそうさせているのだと。(ローマ8:15-18) 私たちは、しばしば自己矛盾に苦しみます。 こうしたいのに、それが出来ない・・・それは戦いです。 自分の中のグチャグチャした物を見ながら、イエスを拝しに行くのです。 10節より。2000頭の豚に悪霊が乗り移り、崖から落ちて死んだ、とあります。 1頭が10万円だとしたら、2億ほどの財産が一気に無くなってしまったのです。 豚を飼っていた人にとっては、それは大変な損害ですが、 それと引き換えに、「彼」は、元通りになったのです。正気に戻りました。 これは、何かに似ています。 そう、イエスの十字架に似ているのです。 全人類の罪が、イエスの中に入り、神の子イエスが死ぬ代わりに、 信じたものが救われるというあの十字架。 この事件は、十字架の予標なのです。 この世は、武力で平和をもたらそうと考えます。 権力を使い、力でねじ伏せようとします。 しかし、一切そういうことをされようとしませんでした。 神自ら犠牲となられたのです。 こんなことを誰が考えつくでしょうか? 人間には考えつかないことです。 今、恐ろしい犯罪が次から次へと起こっています。 本当に人間がやることかと思いますが、人間は、それをやれてしまうのです。 戦争へ行くと、人殺しが楽しくなるということがあるそうです。 権力を握れば、人の命はどうでも良くなる。これが人間の罪です。 全ての人が、もれなくその罪を持っています。 それこそ、「レギオン」ほどたくさんの罪を抱えているのです。 一人の人を救うのに、豚2000頭が必要でした。 その人の価値は、2億円以上のものなのです。 そして、一人が救われるのに、神が十字架にかかる価値があると聖書は語るのです。 2000頭の豚というのは、とんでもない額です。。 全人類が救われるためには、神の命が必要だったのです。 16節、街の人が、何事かと集まってきました。 彼らは、「イエス様、よくぞやってくださいました」とは言いませんでした。 「この地方から離れてくださるよう願った」のです。 人とはこういうものです。 「私の生涯に、イエスはいらない」 「今の状況を壊してほしくない」と考えています。 正気に戻った「彼」は、イエスに「お供をしたい」と願います。 しかしイエスは許しませんでした。 それは、彼にとっては辛いことだったはずです。 彼が、その後その地で、終生穏やかに暮らしたとは考えにくいことです。 悪霊につかれ、墓場に住み着いていた人だと、ずっと後ろ指指されることでしょう。 19節、イエスは言います。 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、 どんなに大きなことをしてくださったか、 どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」 家族とは、一番受け入れがたい存在でしょう。 そこに帰れ。やることは一つだ。 主があなたにしたことを伝えなさい。それがあなたの働きだ。と、イエスは言うのです。 20節、彼は、イエスに言われた通り、言い広め始めました。 家族から見放され、生きていても仕方がないと思っていただろう彼が、 主から憐れみを受け、罪が赦され、新しい人生が与えられました。 ここからの彼の歩みは、なんと意義深かったことでしょうか。 私たちは、自分の人生をよく見て、毎日観察するときに、 私たちの罪を、私たちではなく、主が一つ一つ戦って、 克服して下さることに気づいていきます。 それに気づき、人々に語っていくことによって、日本は、世界は変わっていきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.05.20 19:23:20
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