|
カテゴリ:礼拝メッセージ
前後しちゃうけど、先週、母の日での礼拝メッセージをアップします。
こうやって、毎週のメッセージを思い出しながら書くのって、 すっごい恵まれる作業なんですよね~ 神様の言葉が、より深く心に刻まれる感じです。 皆さんにシェアしたくて書いてます。毎度長文ですが、良かったら読んでね~ ******* 第13回目。マルコの福音書4章35節~41節。母の日礼拝(2005年5月13日) 「困難の中にあっても」 ***夕方、向こう岸に渡るために舟に乗っていたイエスと弟子達。 突風が起こり、舟は転覆しそうになるが、イエスは眠っていた。 慌てる弟子達。イエスが風をしかりつけると嵐がやんだ。 弟子達は大きな恐怖に包まれた。*** 弟子達の恐怖には、2つの種類がありました。 一つめ。嵐を恐れました。 この時、少なくとも3人の弟子がいたと思われます。 ペテロ、ヨハネ、ヤコブ。彼らはもともと漁師でした。 漁師といえば、舟のプロです。嵐については良く分かっているはず。 激しい突風があり、舟は波をかぶって水でいっぱいになりました。 「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」 弟子達の言葉です。これは、原語ではとてもキツイ言葉で書かれています。 2つめの恐れ。それは、41節の「この方はどういう方」なのか、という怖れです。 この場面で、イエスではなく、仮に一人の牧師が弟子達と舟に乗っていたとしたらどうなるでしょう。。 「神様、どうかお助けください」と祈るのではないでしょうか。 しかし、イエスは違いました。 「黙れ、静まれ」と、自然に対して、直接語りかけられたのです。 牧師とは、全く立場が違うことが分かります。 それまで弟子達は、「この人は、偉い先生だ」くらいにしか思っていなかったでしょう。 しかし、もしかしたらこの人は・・・と、ようやく気づいたのです。 普通の人ではない。 イエスは、自然をもコントロールされる方・・・神ではないのか。 そう、「発見」し始めたのです。 今日は母の日ですが、1905年(1907年?)アンナ・ジャービスという 女性の宣教師が始めました。 教会学校の先生として働いていた母の姿を思って始まったそうです。 宣教師としての自分の働きの中で、改めて母を発見したのでしょう。 神に従い、仕える姿を、母として尊敬しました。 「私のために、ああしてくれた、こうしてくれた」という感謝も大切ですが、 彼女は神に仕えていたという、その喜びの発見をしたのです。 一緒にいるとなかなか発見できないことかもしれません。 弟子達もそうです。大自然相手に、言葉一つで治めてしまわれるこの方は、 神であるという発見を今まさにしたのです。 世には多くのカルト宗教があります。 最近だと、韓国の「摂理」などは有名です。 彼らは「私は神だ」とは言いますが、「私は造り主だ」とは言いません。 この時の弟子達には、イエスは造り主だという意識が芽生えたのでしょう。 信仰とは、何か奇跡的なことに心奪われて、ついていくことではありません。 イエスの言葉に聞き、従っていくときだけに、感じられるものです。 それを通して、神が現されたとき、それが奇跡。 波を治めるような方がおられる、、、この発見こそが奇跡なのです。 イエスを単なるエンターテイナーのようにしか見ない人々の中で、 弟子達は、発見したのです。 日常の生活の中でも、神のことを発見していくことができます。これが奇跡です。 信仰とは、証言によってなりたつものです。証拠によってではない、といえます。 神の証言によって、成り立っていくのです。 証人の証言によって・・・「神がこんな恵みを与えてくれた!」と。 だから教会が必要なのです。 皆が証言し、そして確信をもつことが出来るようになるのです。 イエスを発見した人との交わりを通して、神を発見し、それを共有するのです。 1番目の恐れは、人間的恐れ。 2番目の恐れは、神に対する怖れです。 私たちが抱く日常の恐れ・・・ 死に近づくこと、病気、経済的不安、子供の将来、人間関係、、 それら全てのことは、神に対する怖れを持ったときに消えます。 弟子達は、イエスへの怖れが生じたので、人間的恐れが消えたのです。 波を見たから恐れました。 しかし、上を見たら、すなわち神を見あげる時、波は見えなくなるのです。 従っていく訓練をし続けていく中で、 日々のもろもろの恐怖は消えていきます。 それが弟子達の経験したことでした。 神は聖書の中で、道である、光である、ぶどうの木である、、、と、 百何十種類の言葉でご自分を表現されていますが、 私たちの生活の中で、それらの意味が分かってくるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[礼拝メッセージ] カテゴリの最新記事
|