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カテゴリ:信仰
キリスト教界にも、カウンセリングという分野があります。
少し前まで、教会は「カウンセリング」を拒絶していたといいます。 世の中の手法であるそれに頼ることが、邪道だということなのでしょうか? Uooには、よく分かりませんが・・ でも良く考えると、イエス様のことを「偉大なカウンセラー」と 私たちは呼ぶことがありますしね。 聖書を用いて人生を学ぶことも、大きな意味ではカウンセリングだと思います。 それにしても昨今は、あまりにもひどい事件が頻発し、 理解不可能だと思えるほどの内容に、呆然とすることもしばしば。 なぜこんなことが起こるのかと、不思議に思うと同時に、 教育がいかに大事かということを痛感します。 Uooの住む地域で、10年くらい前に、少年達による凶悪事件が起きました。 殺人者として逮捕された彼らのうちの一人は、 面会に訪れたクリスチャンたちの導きで悔い改め、 「生きて証をしたい」と願うようになったそうです。 彼は、小学校さえもしっかり出ていませんでした。 字もろくに読めない彼のために、 クリスチャンたちは、面会に行っては、国語と算数を教えました。 次第に彼は、自分は愛されているということが分かるようになりました。 「自分に興味をもってくれる人がいる」 それは、彼にとっては生まれて初めての経験だったのかもしれません。 愛するとは、その人に興味を持つこと。 愛の反対は、憎しみというよりむしろ、「無関心」だと思います。 そうして彼は、初めて自分の罪が分かりました。 殺人の罪を犯したときは、全く何も感じなかったといいます。 それは、彼自身に、希望も夢も愛も、何もなかったからです。 愛されて、はじめて自分がなんと言う恐ろしい罪を犯したかに気づいたのです。 どうしたら人間関係がよくなるのか、と私たちは悩みます。 それは、愛することに尽きるのでしょう。 愛することが出来るためには、 自分がどれだけ愛されているかを知らなければなりません。 これがキリスト教カウンセリングの根幹です。 ~礼拝後の学びより~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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