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カテゴリ:礼拝メッセージ
今日は、ずっと楽しみにしていたGiveThanksのライブ。
ライブの報告は後で書きます☆ その前に、先週のメッセージをアップします 第15回目 マルコの福音書5章21節~43節(2007年5月27日) 「病と死を支配されるイエス」 ***会堂管理者ヤイロが、自分の娘を癒して欲しいとイエスにひれ伏して頼んだ。 ヤイロと一緒に出かけたイエスの元に、多くの群集が押し迫った。 12年の間、長血を患っていた女性が「お着物に触ることでも出きればきっと直る」と、 イエスの着物にさわった。その途端彼女の病気は癒された。ヤイロの家につくと、娘は死んでいた。 取り乱している人々を見てイエスは、「子供は死んだのではない、眠っているのだ」といわれた。 娘の両親、数人の弟子たちだけを伴って娘の部屋に入り、「タリタ・クミ」といわれると、 娘はすぐさま起き上がり、歩き始めた。人々は非常に驚いた*** ここでは、ヤイロの娘の癒しと、長血の女の癒しの2つの話が書かれています。 長血とは、おそらく現代でいう子宮筋腫だと言われています。 当時、この病の人は人前に出られませんでした。 しかし外から見える病気ではないので、女性は出かけていったのでしょう。 医者としてのイエスに会いに行ったのです。 大勢の群集に取り囲まれているイエスの元へ一人の女性が行くということは 大変なことだったでしょう。お着物にでも触れば直るかもしれない・・・ ギリギリのところに追い込まれていて、それは必死の覚悟だったことでしょう。 女性がイエスの着物に触ると、瞬間的に癒されました。 イエスは、自分から力が出て行ったことに気づいて、「触ったのは誰か?」と イチャモンをつけます。弟子達は、これだけ人々が押し合いへし合いしているのに 分かるわけがない、と呆れます。しかしイエスは、「見回して」探そうとします。 ここでは、「凝視して」という原語が使われています。 病気の女性が人前に出て行って、イエスに触った。 これは、石打の刑になっても仕方ないくらいの重大なことでした。 しかしイエスは言われました。「あなたの信仰があなたを直したのです」 新共同訳では、「救った」と訳されています。 ヤイロは会堂管理者でした。リーダー的立場の人です。ヤイロという名前が こうして書かれていることは、彼とマルコにとっては大変な賭けです。 なぜなら、イエスはカルトの教祖のようなものとみなされ、 宗教指導者たちにとっても、国体を維持しなければならないローマにとっても、 危険人物だったからです。 そのイエスと関りをもつということは、世間からそうとう叩かれることを 覚悟しなければなりません。 一方、長血の女性については、名前は記されていません。これはマルコの配慮でしょう。 しかし、聖書に書かれている彼女の告白、そしてその行動は命がけでした。 2つの物語。それは癒しとよみがえりについて書かれています。 それらはイエスによって行なわれました。 病を支配すること。医者であれば、ある程度は出来ることです。 イエスを救い主と信じ、付き従っていた人は多くいましたが、 多くの弟子達は、やがて散っていきました。 「こういうわけで、弟子達のうちの多くの者が離れ去って行き、 もはやイエスとともに歩かなかった(ヨハネ6:66)」 イエスが、自分達の思っていたメシヤ像ではなかったことに失望したのです。 病気も死も、イエスの手の中にあります。 聖書は、それを信じて生きろと言います。 聖書はイエスの素晴らしい権威の下で書かれたから、その元で生きよというのです。 理神論は、世界には法則があり、その法則に従って生きれば幸せになれるといいます。 何年何月に生まれたから、こういう法則がある。 名前の画数がこうだから、こう生きると幸せになる。 法則から離れたから不幸せになる、と彼らは説きます。 しかし、イエスが今も生きておられて、イエスが私たちを愛していること、 それが私たちを幸せにするのです。 ある高校生が、彼女が出来たらとても幸せ、やる気も出るし、人生ばら色になると思い、 でも現実は、自分はもてない。愛されたことにしよう、といって、 エアギターというのが流行っていますが、エア彼女、、、というのはアリでしょうか? ・・・幸せになれるはずがありません。 神が架空のものだったら、私たちは生き生きとは生きられないのです。 日本は理神論がまかり通っています。細木○子さんなどはその最たる例です。 全ては法則によっている。法則にしたがって生きれば良い。 本気で愛してくれる神などいらない。 そう、理神論は、愛のいらない成功術といえます。 そういうものが、実際にこの世には存在するのです。 ある道を極めた人は、神を垣間見ることが出来ます。 しかし、それはとても細い、ある一点だけなのです。 それは、その根底に流れる深い愛を知らないで、一点だけを発見したに過ぎません。 愛を知って、愛の中で生きるなら、それはもはや細い線ではありません。 全生涯において、生き生きと生きられます。 全知全能の神が、命をかけて自分を愛してくださっていることを知ったときに、 それが可能になるのです。 イエスは、私たち一人一人に、それぞれ細かな配慮をされ、 一人一人に、奇跡を起こされます。 癒される中に祝福を与え、癒されない中から祝福を与えます。 権威あるイエスは、本当におられ、私を愛していること。 そして、主の与えてくださる愛は機械的なものではなく、 それぞれに細かく配慮された、完全なものなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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