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Uooの三日坊主Diary

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2007.06.09
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カテゴリ:礼拝メッセージ
先週の礼拝メッセージです。毎度長文ですみません。
よろしければ読んでください。
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第16回目 マルコの福音書6章1節~6節 (2007年6月3日)

「キリストの栄光」

***イエスは弟子達を伴って、郷里に行かれた。
安息日に、会堂で教え始められると、多くの人々は驚いた。
「この人は大工で、マリヤの子ではありませんか」イエスは言われた。
「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです」
そこでは何一つ力ある業を行なうことが出来ず、少数の病人を癒されたのみだった。***

イエスの栄光、といえば何を思い出すでしょう。
それは単に、霊能者が持つような超能力ではありません。
イエスが全てを作り、全ての権能を持っています。
人々を癒し、よみがえらせました。
しかし、イエスの郷里では、正反対のことが起きました。
何も、業を行なわれなかったのです。

イエスは安息日ごとに、地域の会堂で教えられました。
いわば、巡回伝道師です。こういう立場の教師は、もともと人々から
あまり大きな期待はされていなかったと思われます。
ヨーロッパでは巡回裁判所というのがありました。
地域ごとに裁判所を持つことが出来なかったので、簡易な裁判所が
巡回して回るというものです。
簡易的なものなので、大したことは出来ないとして、
人々にはそれほど期待されていませんでした。それと同じです。

しかし、イエスは有名人でしたから、多くの人々がやってきました。
聖書の話をし、業もしたことでしょう。そして彼らは驚きました。
「大工ではないか」と。
マタイの福音書では、「大工の息子ではありませんか」とあります。
この「大工」とは、石を使った細工人も含まれます。
そして、とても軽蔑した言い方で書かれています。
当時、ローマ・ギリシャの哲学の影響で、
霊的、知的なものは崇高で、肉体的なものは低いという考えがありました。
肉体労働者は低く見られていたのです。

「こうして彼らはイエスにつまづいた」
なぜでしょう?彼らは「この力はいったい何なのか」といいました。
「どこで手に入れたのでしょう」ではありません。
嵐をしずめたイエスの力に驚いた弟子達の反応によく似ています。

「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか」
イエスは大工で、その家族のことも小さいときからよく知っている!
人間が一体どこでつまづくのかを学ぶことができます。
素晴らしい業、言葉の中に神を見ようとするのではなく、
自分の知識、経験の中に閉じ込めて、それに入らないものは受け入れない。
そこに人間の弱さがあるのです。

細木○子さんの話しに、人々は納得します。
それは、自分の知識に合致するからです。
イエスの業も、言葉も、全く自分の知識の中には無いものだったために、
それがどんなに素晴らしいものであっても、人々はNo!といいました。

子供の教育について、私たちの観念の中に閉じ込めているとしたら、
いろんな可能性を閉じ込めてしまうことになります。
一人一人の子供は、神が造られ、無限の可能性がそこにあります。

伴侶について、人は、自分が選んだ相手だと考えています。
しかし、自分が選んだのではない、神が私のためにおいた、とするなら、
無限の可能性の中で理解することが出来るのです。

ものすごいものを目の前に見ながら、自分の中に入らないものは拒絶する。
それが人間の姿です。

信仰とは、日常の生活で、神のなさることを経験し続けること、
それしか方法はありません。
聖書を読むことは、毎日神を発見できるようになるためです。
イエスの郷里の人々は、それが出来ませんでした。

「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」
この言葉は、もともとあったことわざの引用といわれます。
「預言者は親族の間では尊敬されない。医者は自分の家族を癒さない」

これは一つのことを教えようとしています。
家族とは、最も近い存在です。
近い、と感じていますが、それは真実でしょうか?
家族というものを、キリストにあって再理解する必要があります。

東京では、2000万円以上の資産のある人の6-7割が、
何らかの法律問題を家族間で抱えているといいます。
肉親だからこその問題がそこにはあります。

再理解し、再解釈すること。
神によって与えられたという喜びをもう一度理解しなおさなければいけません。

預言者を尊敬することは、ユダヤ人なら当たり前のことです。
最も親しい家族は、それがわからないのです。

そして、イエスはそこでは、力ある業を行なわれませんでした。
Can notではなく、「されなかった」のです。

イエスは、愛の方であり、全ての人に対して
愛を全うしようとしておられるのは確かなことです。

渇水が続く土地で、何ヶ月ぶりの雨が降り出したとします。
バケツやコップなど、思い思いに人々はもって外に飛び出します。
どんなものを持っていったかで、水の量は決まります。

恵みとは、期待した大きさによるのです。
溢れるばかりに恵みは注いでいます。
何を持って、外に飛び出すかが、問われているのです。
大きく期待して主に従うなら、恵みがどんなに大きいかに気づきます。
多くの艱難の中、何と大きな恵み、光を発見することでしょうか。

この時、弟子達はイエスのことをまだよく分かっていません。
でも、ついていきました。
あの人を癒して、あの人は癒さない。なぜ?
あの場所ではとても大きな業を行ない、ここでは何もされない。なぜ?
弟子達が、まだ、イエスを「キリスト」と告白する以前の話です。
でも、ついていったのです。
大きな入れ物をもって、雨の中を飛び出しました。
そして彼らは、裏切られませんでした。

どのように受け止めるか。
たくさん善行をした、奉仕した、ということではなく、
主と共に生き、イエスを発見しようと思いつづけること。
生活の中で、雨が降りつづけるように、
イエスの姿は、そこにたくさんあるのです。
100万通りどころではない、無限にあるイエスの像。
こんなところに、あんなところにおられた!それは本人がわかるのみです。
だからお互いに証をし、励ましあい、期待するのです。

イエスの姿を、日常の中で発見していく経験が出来るように願います。







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Last updated  2007.06.09 21:12:06
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