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カテゴリ:礼拝メッセージ
遅くなりましたが、10日の礼拝メッセージです。
毎度長文ですみません。 第17回目 マルコの福音書6章7節~13節 (2007年6月10日) 「遣わされる私たち」 ***イエスは12弟子達を二人ずつ遣わし、汚れた霊を追い出す権威を与えられた。 そして言われた。「旅のために杖一本のほかは何も持っていってはいけません。 パンも袋も、胴巻きに金も持っていってはいけません。 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」 「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、 その家にとどまっていなさい。もし、あなた方を受け入れない場所、また、 あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、 そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」*** マルコの文章は、サンドイッチのように物語が挟まれているものが多いです。 ここでは、弟子を派遣する場面に、ヨハネが殺される話が挟まれています。 エホバの証人が「二人ずつ」伝道に出て行くというのは、 この箇所に根拠があるそうです。 それはともかく、二人という人数よりもむしろ、「チーム」で派遣されるという 意味こそが大切です。 みことばを語り、汚れた霊を追い出すという仕事。 イエスの立場なら考えられるその仕事も、弟子達には大変心もとないことです。 イエスはたくさんの奇跡を行い、みことばを語りました。 しかしこの時点では、誰も新約聖書を持っていないのです。 旧約聖書でさえ、持っていませんでした。 直に受けたものを、そのまま伝えにいこうというのです。 汚れた霊を追い出す権威、とあるのは、「人間的発想」を追い出す、 という意味があります。 8節には、杖1本だけ持っていっても良いとありますが、 マタイの方では、「杖さえも持つな」とあります。 杖は、ヘビや害虫などを避けるために必要でした。 足のちりを払え、とあるのは、この時代、家に入るときに 異邦人のものを持ち込まないために全てのちりを払うという習慣がありました。 マタイの福音書10章、11章には、たくさんの記事が書かれており、 「イエス第2の説教」と呼ばれています。 10章16節には、これから弟子たちにさせることは、とても厳しいことなのだと イエスが語っています。 「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。 ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」 私たちの悩みは、イエスを知らないということに根本があります。 日本の中高生で、将来に希望のある人は20%といいます。 アメリカ、中国、韓国では90%ですから、いかに低い水準かが分かります。 何のために生きているのか。これからどうなっていくのか。 若い人たちに希望がないのです。 弟子達は、とにかくイエスについていきました。 あるものは、自分の職業をおいて、イエスに期待してついていきました。 イエスのみことば、業、ここに何かがある。 そしてイエスは、あなた方が為すことがある、 あなた方のために私が与えたものを、今度は他に渡しなさい。 それが信仰人の生き方だというのです。 実際、信仰とは、充分な知識がなくとも、学びながら実践していくものです。 学校では、自分の専門知識を鍛えてから世に出て行きます。 しかし信仰の世界では、全部分かったから出て行くというものではありません。 伝えながら、成長していくのです。 ある程度知っているなら、宣べ伝えよう、というのが信仰の世界です。 Activity(行動療法)という分野があります。 20人くらいで山の中を歩きます。みんな目隠しをして、一番前の人だけ 目を開けて見ることができます。これは結構怖いことです。 「ここに岩がある」「枝が突き出てる」など、次の人に伝えながら歩きます。 「ちょっと大きい石があるよ」など、言う事が変わります。 前の人の情報をどうとらえるか、自分の経験と照らし合わせて どう次の人に伝えるかが変わってくるのです。 会社の研修でこのActivityを用いることがあるそうですが、 家族間でも大事なことです。 信仰の歩みは、これに似ています。私たちは歩きつづけるのです。 いつも歩んでいます。一番前にはイエスがいます。 その次に弟子達。彼らが私たちに伝えてくれました。 私たちの後ろに、繋がる人たちがいます。 的確に、私たちが後ろの人たちへ伝えていくのです。 信仰とはこのような世界です。不安もあります。しかし大丈夫。 イエスが一番前にいるからです。 歩きつづけることが出来るのは、前の人が今も歩いているから。 「何も持たずに行け」といわれました。 ユダヤでは、聖なる場所へは自分のものは全て下において行ったのです。 何も持たずとも、主が一番前におられる。 私たちは、受けたことを伝えつづければ良いのです。 受けただけで、とどまっていてはだめです。教えながら理解するのです。 受けたことを伝えつづける、その行動そのものが信仰です。 それが私たちを前に進ませ、成長させます。 そして多くの人々との交わりを作っていきます。 イエスは、100%大丈夫だからと弟子達を派遣したのではありません。 不十分な私たちですが、教会はまさにActivityの場所です。 悔い改めを説き広めるだけ。「神のところに帰ろう!」 「そして天国へ行くことが出来る。この地上においても生き生きと生きられる。」 それを伝えていくのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.06.20 13:51:19
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