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カテゴリ:礼拝メッセージ
2週間前の礼拝メッセージをアップします。
奉仕・・・捧げることの意義、奉仕によって与えられる喜びを 改めて知らされるメッセージで感謝でした 第19回目 マルコの福音書6章30節~44節 (2007年6月24日) 「主の働かれるところに」 ***イエスは、群集をご覧になり、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、 いろいろと教え始められた。遅い時間になり、弟子達が、彼らにめいめい食べるものを買うように させて下さいとイエスに告げると、イエスは、弟子達で何か食べる物をあげなさいといわれた。 弟子達がとまどっていると、イエスは、パンはどれだけあるかと言われた。 弟子達がパンが5つ、魚が2匹あることを確かめてイエスに告げると、 イエスは人々を組にして座らせ、パンと魚を祝福して皆に分けられた。 人々はみな食べて満腹した。パンを食べたのは男だけで5000人だった。*** 5千人の給食として有名な場面です。男性のみで5千人ですから、女性や子供を合わせたら、 1万数千人、もしかしたら、2万人ほどの群集だったかもしれません。 現代でも、2万人の集会といったら大変なことです。豊田市の人口は41万ですが、 そのうちの2万人が豊田スタジアムに集まったとしても、相当大きいイベントです。 マルコがこの福音書を書いたのは、この出来事の30年近く後のことでした。 この事件に立ち会った人たちは、まだ生きていたはずです。 もしこの事件がウソなら、この部分は割愛されたことでしょう。 「99.9%は仮説」という本があります。著者は東大で物理学を学び、 カナダの大学院で博士号をとったという竹内薫さん。 彼は、本の中で「全てのものは仮説」といいます。たとえば、飛行機が何故飛ぶのか。 気圧の差で飛ぶといわれていたが、それは間違いだったというのです。 そして、何故飛行機が飛ぶのか、全く分からないといいます。 仮説はいつでもひっくり返されるのです。 かつて、精神病治療のために行なわれた、ロボトミー手術というものがありました。 前頭葉を切り取ることで、性格が穏やかになりおとなしくなるということで認められ、 30年くらい世界中で行なわれたのです。しかし、これは人格を無くすことです。 今なら深刻な人権問題でしょう。この手術を開発した医師はノーベル賞を受賞しています。 このように、今、常識と思っていることも、全部仮説なのです。 いつか、ころっと変わることがあります。この著者は、カトリック信者だそうです。 進化論を受け入れていますが、生命の起源については、本当のところは分からないといいます。 定説はゼロなのです。ですから、五千人の給食があっても、おかしくはありません。 非科学的ということはあたらないのです。科学には客観性はありません。 それは人間性の問題なのです。 主のしたことを、多くの人が見て、伝えていったということが大切です。 イエスと弟子達のやりとりに目を向けて見ましょう。 なぜでしょう、とてもまどろっこしい、面倒くさい仕方で奇跡が行なわれています。 イエスは、「あなた方であの人たちに何か食べ物をあげなさい」といわれました。 そんな無茶な!と弟子達は思ったでしょう。200デナリものパンを買って・・・ と弟子達は反論しています。1デナリは一日の労働賃金といわれますから、およそ1万円として、 200万円の食料ということになります。 イエスは、パンはどれくらいあるかと聞かれました。 ロールパンほどの大きさのパンが5つと、イワシほどの魚が2匹ありました。 イエスは群集を50人、100人ずつ並ばせ、整列させました。 そして、5つのパンと2匹の魚を点にささげ、割いていったのです。 そんなことをしなくても、全く何もないところからやっても良かったのではないでしょうか? イエスは神なのですから、それが可能だったはずです。 イエスは弟子達に、「あなた方で彼らに食物を与えよ」といわれました。 弟子達は、奇跡を経験しています。イエスの奇跡をたくさん見てきました。 また、自分たちも癒しを行なったのです。ですから、この時、 「どのようにしたらいいのか」とイエスに聞くこともできたはず。 しかし、彼らはいえませんでした。まだ、主に期待できない彼らの姿がここにあります。 前の奇跡とは、種類が違うといえばそうです。何も無いところから「創造」するのですから。 イエスは、あなたが知っている私の像はまだ小さい。 何もないところから生み出すことの出来る方だということを、 弟子達に示そうとしておられるのです。 わざわざ、パンはどれだけあるのか、とイエスは問います。何もなくても出来るのに。 しかし主は、私たちが差し出したものを、幾重にもされる方なのです。 奉仕とは、自分たちが持っているものをイエスが何倍にも祝福してくださって、 成り立つものなのです。 弟子達は、その一部始終を見ていました。群集は、見ることができません。 彼らにとっては、この奇跡はまるで手品のようなもので、おなかがいっぱいになり、 イエスの話も聞くことが出来て、満足して帰っていったことでしょう。 しかし、弟子達は現場にいて、全てを見ていました。 主は、あるものを持ってきなさい、といわれます。そして、主のもとにもっていくと、 何倍にも増えるのです。自分たちが持っているものを捧げるとき、 それを何倍にもして下さる主の業に出会います。 私たちが捧げることは、神が金持ちになるためではありません。 私たちの人生において、にぎっているものを手放して、主のために用いる時に、 自分自身がどんなに豊かになるかを知るためです。 5つのパンと2匹の魚。それは、ある人の夕食だったのでしょう 。自分の子供に与えるための大切なものだったかもしれません。 ユダヤ人は頭にカゴをのせて食料を入れ、いつでも食べれるようにしていました。 あるものを出したとき、何千倍、何万倍にもなっていく、捧げさせていただいたものが、 どのように大きく用いられたか、何千もの人がイエスの業を聞き、見ました。 その人の生涯に影響が始まったのです。 私たちにとって、その意味はなんでしょうか。群集の目で見るのか、弟子達の目で見るか。 群集は、良かった良かったと言って帰って行き、それでお終いでしょう。 私たちは、奉仕を通して弟子達のように主の業を現場で見ることが出来ます。 弟子達がかけられた言葉に心を留めましょう。 主の働かれるところに、私たちの成長があります。 私たちが、自分自身を捧げるところに、私たちの成長があるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.07.07 21:37:44
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