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カテゴリ:信仰
人間には、「許す」ことは出来ても、「赦す」ということは
本当の意味では不可能なことなのかもしれない。 それは、まさに神業で、人間が赦すというようなことは そもそも傲慢なのだとも、ある意味言えるのかも? 赦すということは、相手が謝ってきたときにするものだと思っていた。 謝罪もない相手を、赦す必要はないし、 第一、神様も、私たちが罪を認めて「ごめんなさい」と言ったから、 受け入れ、赦して下さったのだ。 クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、 「赦されているもの」と「赦されていないもの」という違いだとも聞いた。 そして、赦すとは、「忘れる」ことと同義語だとも考えていた。 幸い?Uooは、あんまり執念深い方ではないようで、 ちょっとくらい痛い仕打ちを受けたとしても、 数日経つと忘れてしまう・・・ (実際、これは感謝なことではあるが、単に物忘れが酷いだけかもと、心配でもある・・) だけど、「主の祈り」では、こう祈るのだ。 「私たちの罪をお赦しください。 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」 赦しました・・・と完了形で、この祈りを私たちは捧げる。 主が、このように祈りを教えられたのは、深い意味があるのだろう。 そして、7度を70倍するまで赦せと、主は語られている。 赦すとは、忘れるということでは、決してないという。 それは、「決断」なのだ。 相手を受け入れていこう、理解するために、研究していこうという、 その決断こそが「赦し」。 というわけで、ある「赦せない」相手のことを、 『気が向いたら』研究してみようかなと、思い始めたUooなのでした。 (↑この場合、研究するとは、愛すると同義語と思ってください) ~~~礼拝後の学びより~~~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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