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カテゴリ:礼拝メッセージ
先週の礼拝メッセージです。Uooは友人の洗礼式出席のため、別の教会に行っていたので、
ダンナさんに録音をお願いしてありました。 ・・・一日に2つアップして、大変恵まれましたが、さすがに疲れてしまいました・・・ ・・・でも、夏休みの宿題を、毎年最後まで溜め込んでいたUooなので・・・ この習性はきっと一生変わらないと思われ・・・ ===== 第22回目 マルコの福音書7章24節~30節 (2007年7月15日) 「小さな村の出来事」 ***ツロにやってこられたイエス。汚れた霊につかれた娘のいる女が、娘から悪霊を追い出してくれるようイエスに願った。イエスは、子供たちのパンを取り上げて子犬に与えるのは良くないと言われた。女がさらに、子犬でも子供達のパン屑をいただきますと言うと、イエスは女の願いを聞き届けられた*** 聖書の後ろの方に、この時代の中東の地図が付録としてついています(新改訳聖書中型版)。まず目に入るのは、デカポリス、その上にガリラや瑚、下に死海を確認できます。ガリラヤ瑚と死海を結ぶのがヨルダン川ですね。ガリラヤ瑚の北に、カペナウムという町があり、コラジンを通って海辺へいくと、ツロ、今回の舞台です。 イエスは、カペナウムを中心に宣教活動をされました。ガリラヤ、サマリア、そしてデカポリスも少し含む地域です。カペナウムから北東に向かったところに、ツロという町はあります。海岸の、わりと大きな商業都市でした。半径2、30キロほどで、貿易が盛んに行なわれていました。 イエスはその場所まで、60キロほどの道を歩いて行かれました。24節を見ると、家に入られたとき、誰にも知られたくないと思われたのに隠れていることが出来なかったとあります。このツロの町まで、イエスの名前は響き渡っていたのです。ツロはユダヤ人の少ない地域でした。 26節、ギリシャ人であり、スロ・フェニキア出身の女性がイエスの前にひれ伏して願います。この場面は、マルコではわりと簡単に書かれていますが、マタイは詳しく書いています(マタイ15章21~28節)。そこには、イエス、弟子達、そしてこの女性の会話が詳しく載っています。 ここを読むと、イエスはちょっと冷たいのではないかと感じます。「わたしは、イスラエルの滅びた羊以外のところには遣わされていません」といわれました。これは、わたしが行くべきところはユダヤ人である、彼らは神に選ばれた民でありながら、神を拒絶している、彼らのところへ行くことがわたしの使命なのだ、と言われているのです。 マルコの27節を見ると、「まず子供達を満腹させなければなりません。子供達のパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」とあります。子供達とはユダヤ人のこと、子犬とは異邦人のことです。 ユダヤ人が、犬、といった場合、それはものすごく愚弄した言い方です。しかしここでは子犬と表現していますから、馬鹿にした言い方ではなく、家で飼っているペットを指します。しかし、それにしても、イエスの言葉は冷たく感じます。 一体、イエスの使命とは、何だったのでしょうか。学校の教科書などを見れば、イエスキリストという人がいて、何か不思議なことを行なって、最後には十字架にかかって死んだ、ということが書いてあるでしょう。しかし、彼の使命については書いてありません。 イエスの使命とは、福音宣教でした。神の言葉を伝えることです。世の人々は苦しみの中にいる、それは神の言葉をしらないから不幸なのだ、だから伝えに行くのだ・・・そうであれば、幸せになりたいのは皆だれも同じなのだから、皆に伝えた方がいいのではないか、と私たちは考えます。 イザヤ49章6節「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」 ヤコブの諸部族とは、ユダヤ人たちのことです。とどめられている、とは、神から遠く離れているということです。順番があるのです。まず、ユダヤ人、そして異邦人。ある人は、これは平等ではないと言うかもしれません。 実は、聖書には、平等という言葉は使われません。公平という言葉もありません。公正という言葉が使われます。平等、公平、みんな一緒ということなど有り得ないからです。お金持ちの家に生まれた人もあれば、そうでない人もいる。地位のある人もいれば、そうでない人もいるし、学問、運動、すべてにおいて、人は平等ではありません。しかし公正こそが大事です。 どんな環境のところに生まれ育ったとしても、それぞれの場所で、艱難、苦しみ、喜びを感じてきたでしょう。公(おおやけ)に平(たいら)ではないが、その現場で、悲しみ、喜びを通して、主を見ることが出来たのです。 救いにも順番があります。旧約聖書は、ユダヤ人のために書かれました。それが何故なのかは、私たちには分かりません。一つ言えるのは、私たちも実際そのようにしているということです。組織をまとめようとするとき、リーダには経験があり、その分野に興味のある人を集めて組織しようとします。誰彼と無く集めようということはしません。そのように順番があります。神の方法は、能力ではなく、「選び」によるものです。 選ばれたものから始めるのです。この時代はユダヤ人でした。今は、ここに集められている人々です。この教会に集められているということ、それは選ばれているということを意味します。 使徒行伝では、弟子達が地中海周辺の国々で、どのように宣教していったかが書かれています。そこには戦略がありました。まず大都市を攻めます。そこから田舎へ広がっていくのです。いろいろな意見があるでしょうが、こういった戦略によって、2000年の間に教会が大きくなっていったことは事実です。 最近、哲学と科学に関するある人のブログを読みました。私たちは、科学とは客観的な事実が一つあることと考えます。ここにコップがあるなら、それを証明することが科学なのですが、コップがあることは事実なのですから、何万人に聞いても、あるというでしょう。しかしその中の一人でも、自分には見えないといったとしたら、それでお終いというのです。一人一人見ている人の感性、状況、前提が違うので、本当に証明できるということは何もないということです。そして、結局は「決断」が全てだといいます。科学にしろ、哲学、そして宗教でも、あるという前提、その一つの決断から始まって、全てが構築されるのです。 創造主なる神が、私たちを造った。そして私たちの罪の贖いのために十字架で死んだ、そのことを信じ、受け入れるという決断なくしては、なにも始まらないのです。 この場所に集まるということ、これは選び以外にはありません。ここに一人一人がいるという事実に目を向けるとき、感動すら覚えます。 イエスは、この女性に、「選びというのはどうしようもないね」ということを語られたのです。しかし、この女性はユーモアのある人でした。28節「主よ、そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子供達のパンくずをいただきます」 マタイの福音書では、この女の信仰をイエスが誉めた、とあります。この女性から、イエスとの交わり、会話とは、こういうものだということを教えられます。神にも、戦略があります。何故かは私たちには分からないけれど、選びがある、そして選ばれたという事実を忘れることがないように、とイエスは言われます。 しかし、疑問があるのなら、それを伝えること、そしてそこから学ぶことが出来るのです。ひょっとしたら主ご自身が方向転換をして、何かをなして下さることがあるのかもしれません。この女性は、ユーモアを入れながら、主との交わりについて教えてくれたのです。 今までのマルコ(1~21)はコチラ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.07.20 13:45:09
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