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カテゴリ:礼拝メッセージ
久しぶりに、礼拝のメッセージをアップします。
9月後半から、再びマルコの福音書に戻っています。 とりあえず今日の分だけアップし、過去2回分については、 出来れば今週中に書きたいと思います。よろしければ読んでください 第26回目 マルコの福音書9章1~29節(2007年10月7日) ***イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に行かれた。 そこで御姿が変貌され、白く輝いた。エリヤがモーセと共に現れ、イエスと語り合った。 驚いたペテロが「幕屋を三つ造ります」といった。 イエスは見たことを誰にも話さないよう告げた。 弟子達がエリヤについて論じ、イエスに訪ねると、エリヤはもう来たのだとイエスは答えた。 その後、悪霊に疲れた息子を癒した。*** 聖書を読み、理解しようとするとき、その時代に戻って、現場から見るということをします。 マルコの視点、そして神の視点からその出来事を見るのです。 8章38節「このような姦淫と罪の時代にあって、 わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、 人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、 そのような人のことを恥じます」 9章1節「まことにあなた方に告げます。ここに立っている人々の中には、 神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます」 この2節は似ているようで、全く違うことを語っています。 どちらも最後の審判について語っています。 私たちは、全ての不平等やこの世で解決できない様々な困難を、 イエスが最後に決着つけてくださるという信じているからこそ希望があります。 9章1節は、神の国の到来の話ですが、ここは実は、 マルコが後で挿入した節だろうと言われています。 他で聞いたことをここに入れ込んだのでしょう。 9章1節が示しているのはどういうことなのでしょう? 神の国の到来までずっと生きている人がいるということでしょうか? 神の国は突然来るということが言いたいのでしょうか。 ここは、神の国の到来は間近だということだけが言いたかったのでしょう。 その緊急性、その前提でその後を読んでいくと、分かってくることがあります。 9章1節から29節は、3つの話で構成されています。 1つめ、山上の変貌について。2つ目、弟子達がエリヤについて論じ合っていること。 エリヤとは誰なのか?3つめ、耳が聞こえず話せない子供の癒しについて。 山上でイエスの姿が白く輝き、そこにエリヤとモーセが現れました。 この出来事を目撃したのは3人の弟子、ペテロとヤコブ、ヨハネです。 なぜ3人のみ連れていかれたのでしょう? 残りの9人の弟子達はどのような気持ちだったでしょう? そして、何か起こるたびいつもこの3人が連れ出されます。それは何故なのでしょう? ペテロが思わず口出しをしました。 イエス、エリヤ、モーセの3人のためにそれぞれ幕屋を造ります、と。 しかしそれは、ペテロの失敗でした。イエスを、他の二人と同列においているのです。 この奇跡のあと、イエスだけが残りました。イエスが特別だからです。 ペテロはまだ理解していなかったのです。 イエスのことを、単に、立派な素晴らしい人、としか思っていません。 だからこそ、イエスは彼らに、このことを誰にも言うなと告げました。 ここでも疑問が残ります。 キリスト、エリヤ、モーセの三人は一体何を語り合っていたのでしょうか。 そして、それをなぜ、3人の弟子に見せたのか・・・疑問ばかりです。 山を降りながら、イエスは弟子達に語り始められます。 自分が死人の中からよみがえるときまでは、今見たことを誰にも話してはならない、と。 すると弟子達は論じ合いました。死人の中からよみがえるとはどういうことか? そしてイエスに聞きます。 旧約聖書では、救い主が現れる前にまずエリヤが来ると言っている、と。 イエスは答えます。エリヤはもう来たのだと。 マタイの福音書には、エリヤとは、 バプテスマのヨハネだということがはっきりと示されています。 ユダヤ人たちが、ずっと待ち望んできた救い主・・・ その悲惨さは旧約聖書の詩篇、マラキ書、エレミヤ書などにかかれています。 旧約の救い主の悲惨さとはなんのためなのでしょうか? イザヤ書7章14節「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。 見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと名づける」 ここはクリスマスによく読まれる箇所ですが、救い主キリストの誕生を予言している場所です。 イザヤ書53章には、救い主の悲惨さがまざまざと書かれています。 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ・・・ 私たちの病を負い私たちの痛みをになった・・彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられた・・」 しかしペテロたちには、救い主とはどういう姿か分からなかったのです。 旧約聖書のメシヤ預言。救い主の現れる前にエリヤが来るということ、 そして救い主はどんなに悲惨であるかということがはっきり書かれているのです。 エリヤはもう既に来ていました。バプテスマのヨハネがそれです。 そして、目の前にいるイエスが、預言された救い主であるということ、 それらを全く理解していない弟子達の姿がここにあります。 そして、悪霊につかれた子供の話へと移っていきます。 弟子達が霊を追い出そうとしたが、出来ませんでした。 「ああ不信仰な世だ」とイエスは嘆かれます。 「この種のものは、祈りに寄らなければ何によっても追い出せるものではない」 とイエスは言われましたが、これは、祈りの量、数が癒しを行なうという意味ではありません。 祈りの重要性を語っているのです。 祈りとは、まず、祈ってみることが大切です。 その祈りの意味が、祈る中で分かってくるのです。弟子達に、その姿がなかったのです。 定型的になっていたのかもしれません。キリストの権威とはどういうことかという、 その訓練が出来ていなかったのです。 キリストは、祈れ、といわれます。それはどこからでもいいのです。 その中で全てのことが分かってくるのです。祈りを積むことにより、 神のみこころに到達するということが、弟子達は分かっていませんでした。 「祈りによらなければ」すなわち、祈りを積みつづけなければ、また、祈りつづける中で、 悪霊につかれ病気のままでいるということも イエスの権威によるということが分かってくるでしょう。 未だに分からないことがあります。 ヨハネがエリヤである証明はどうやってするのか、など。 分からないことが、本当に多く残されています。 23節。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」 これは、「主ならできる」という信仰、あなたなら出来ますと、 告白するしかないのだと言っています。悪霊につかれた子の父親は、 「主よお助けください」と言いました。この言葉が、人々、そして社会の変革に繋がるのです。 彼は、「お赦しください」と言いませんでした。謝るというレベルではないのです。 助けて、と言った方が良いのです。これは、 「信じつづけていきたいと思います」という意味でもあります。 私たちには、分からないことがたくさんありますが、 地上のあらゆる理解できないことも、乗り越えて後で分かってくるでしょう。 そして天国でイエスに出会ったときに聞いてみたいとも思います。 私たちは、どこまでいっても不信仰な者です。 それについてがっかりするのではなく、この父親のように「お助けください」と 主に叫び続ける者でありたいと願います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.07 22:59:35
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