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Uooの三日坊主Diary

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2007.10.28
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カテゴリ:礼拝メッセージ
今日の礼拝メッセージをアップします。
毎度長文ですが、よろしければお読みくださいウィンク


第28回目 マルコの福音書9章38節~50節

「イエスの御名において」

***イエスの名によって悪霊を追い出しているものがいたが、イエスは自分たちに反対しないものは味方だとして、やめさせなくても良いと言われた。また、手や足がつまづきとなるならそれを切り捨てなさい、両手両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、その方が良いと言われた。***


「先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないのでやめさせました(38節)」このヨハネの言葉から始まって、イエスの教えへと移っていきます。イエスは、「やめさせることはない、私たちに反対しないものは味方なのだ」といわれました。しかしその次の箇所では、「つまづきを与えるようなものは石臼にゆわえつけられて海に投げ込まれた方が良い」だとか、「手がつまづきとなるなら切ってしまえ。両手そろってゲヘナに投げ込まれるよりはマシだ」というようなことを言われます。寛容だと思いきや、このイエスの言葉は一体なんなのでしょう?

カトリックの修道士に、女性を見て情欲が湧いたという自分自身の目をえぐりとった人がいるそうです。イエスのこの言葉、地獄について、天国について、そして教会について、私たちはどう理解したらよいのでしょうか?

教会とは何でしょう。それは会堂、建物のことではありません。イエスを信じるものの集まりそのものが教会です。英語でCommunityという言い方をしますが、今日の箇所からはちょっと違うことが学べます。イエスは「水一杯でも飲ませてくれる人は決して報いを失うことはありません(41節)」と言われます。教会は信じた者の群れですが、そこに限定してしまうと社会に影響を与えることが出来ません。キリストの言葉は社会を変革する力があります。ならば、教会は社会に影響を与えるものと考えましょう。

Communityというより、Networkと捉えるのです。世の人々は、たとえキリストを知らずとも、人生経験の中で聖書のある部分にたどり着くということがあります。聖書を読んだわけではなくても、最も良い生き方を探って歩むうちに、聖書の一部にたどり着くのです。そのような人々の中に、教会は広がりを持っていくのです。教会はNetwork作りから始まります。キリストにあって生き生きと生きるときに、それが外の人々に伝わっていくのです。

イエスを信じるとは、地獄へ行かないということです。それは永遠の命を得るという意味です。私たちは、地獄へ行かないためにイエスを信じるのだと言う事が出来ます。聖書にあるゲヘナとは、ある土地の名前ではありますが、地獄のことを指し示しています。地獄に入らないためには・・・という話をイエスがしています。天国に入るための話ではありません。とんでもない所なので行かない方がいいと言っているのです。

地獄とはどんな場所でしょうか。実は聖書には、地獄の描写がそれほど多くはありません。ルカには金持ちとラザロの話が出てきますが、それらから学べるのは、地獄とは徹底した孤独であるということです。それは絶望以外の何物でもありません。全ての関係から絶たれた一人ぼっちの状態です。

引きこもりの人は、部屋で一人過ごし、孤独ではありますが、外界との接点はちゃんとあります。ネットのゲームなどを通してということもそうですが、彼らは、「拒絶する」という行為の中で回りの人との関係を持っているのです。

本当の孤独は神とまったく断絶して生きることです。これが罪の正体の一部です。私たちは自分のやりたいようにやりたい。これが罪です。それは、人との関係を断絶していきます。利害関係は残るかもしれませんが、それすら無くなったときは、本当の孤独です。その究極が地獄なのです。子供たちを多く殺傷したある殺人犯は、自分と周りとの関係を断ち切って行きました。そして子供すら殺せるようになっていきます。自分に関心をもってくれる人はいないからそれが出来ます。そして、刑務所の中の晩年は、早く殺して欲しいと言っていたといいます。自分のやりたい放題に過ごしていくなら、そのように追い込まれていくのです。罪と地獄は、同義と言ってよいでしょう。罪は地獄への道筋なのです。

名古屋市のある公園で、少年による殺人事件がおきました。死刑判決をうけた元少年は、親に捨てられたような子供時代を送り、17、8歳の頃に事件を起こしました。当時の彼は、足し算や読み書きが殆ど出来なかったといいます。親の勝手で、そして学校、社会の勝手で放棄されていたのです。どのNetworkからも外れていくこと。これは地獄です。一人のクリスチャン教師が、刑務所にいる彼を訪ね、算数や国語を教えました。その手が差し伸べられなかったら、彼はずっと地獄にいたでしょう。今、彼は悔い改めて、生きて証をしたいと願うようになったといいます。

イエスの十字架は、私たちに差し伸べられた手そのものです。やりたいように生きようとする私たちは、放っておけば孤独に陥るのです。イエスは、わたしと共に歩みませんかと手を差し伸べられます。地上で生き生きと生き、来るべきときには天の御国へと導かれます。罪が地獄そのものなのだと語ってくださるのです。

「あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ちなさい(50節)」塩とは、イエスのみことばのことを指しています。私たちは神の言葉から離れてはいけないのだと説きます。悪いことをやったら地獄へ行くのだとは書いてありません。今が地獄なのです。なぜなら、皆が勝手なことをやっているからです。そして来るべきときには永遠の地獄へと投げ入れられます。そんなところへ行くくらいなら、持っているものを捨ててまでして、Networkに入りなさい、そうして和合して暮らすことが出来るのだと言うのです。

教会の目的はそこにあります。入れない人を峻別するのではなく、より広く交わり、塩気のある生き方をしていくなら、周りが変わります。家族が変わり、地域が変わり、社会全体が変わっていくのです。






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Last updated  2007.10.28 23:19:33
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