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カテゴリ:礼拝メッセージ
先週のメッセージをアップします。
2週間も前だと、忘れていることが多くて・・・うぅ、変な文章多し、です。 得ることにのみ一生懸命になっている自分・・・ イエス様に従っていくとき、本当に必要なものが何なのかを知り、 不要なものを自然に捨てていくことが出来るのだと知りました。 主にあって、そのようにシンプルに、美しく生きていきたいと願います。 ===== 第30回目 マルコの福音書10章17節~31節(2007年11月11日) 「主のために」 ***永遠のいのちを受け取るためには何をしたらよいかというある青年の問いに答えて、イエスはあなたの持物をみな売って貧しい人たちに与えよといわれた。また、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしいとも言われた。*** この箇所を理解するには、時代や地域、また、収入などあまりにもかけ離れていて、とても難しいことに思えるかもしれません。しかし、どんな状況にも関らず、受け取れる話です。 「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」とイエスは言われます。ルカの福音書には、ラザロと金持ちの話が出てきます。その話の中では、地上において豊かであったか貧しかったかだけが問い沙汰され、信仰の「し」の字も出てきません。これは大きな警告と理解すべきです。金持ちは天国に行けないという意味ではないのです。 私たちは「捨てる」ということを忘れています。17節、この青年は、どうやったら天国に行けるかと聞きました。イエスはそれに答えて、それは旧約聖書に書いてあるよ、と答えます。19節、「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証をたててはならない、欺き取ってはならない、父と母を敬え」これは、あの有名な十戒です。 イエスと彼の会話はなんだったのでしょうか。イエスは、あなたは神の言葉をちゃんと聞いているか、と言ったのです。青年の、「そのようなことをみな、小さな時から守っております」と答えた、その態度が良くありませんでした。「自分はちゃんとやってきた」という彼に向かって、イエスは慈しんで言われました。責めて言われたのではありません。「あなたには欠けたことが一つあります。帰ってあなたの持ちものをみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい」 イエスは何を伝えたかったのでしょうか。そのことが出来ない、でもついていきたい!イエスは、「そうだよ、どうしてもそのことが出来ない、それがあなたの罪なのだよ、それがわかったね」と言ってくださる方です。青年が、自分の罪を認めて、でもイエスについていきたいと願ったならば、イエスは別の答えをされたかもしれませんでした。しかし彼はそのように願うことが出来ませんでした。 「捨てる」ことは、罪ある人間にとって、とても難しいことです。豊かな国の財産の余剰分を第3世界に分け与えたら、世界の貧困は解消されるかもしれません。しかし、私たちは、何が必要で、何を捨てるべきかという思いの前に、「どうやって得ようか」という社会に住んでいます。 ペテロは「何もかも捨ててあなたについてきました」とイエスに言います。他の福音書では、これに続けて「ついては何をいただけますか」とあります。わたしのために父母を捨てるものは100倍受ける、地上において何倍もを受け、天国も約束されている、とイエスは答えます。ペテロは間違った聞き方をしました。だから、イエスは約束の言葉を述べました。ペテロはこう聞くべきでした。「あなたに従っていきたいです。捨てなければいけないというが、私に出来るのでしょうか?」と。 主は全く別のことを語られたことでしょう。私たちは、全ての機会を取り込んで、充実したいと願います。その結果、体を壊したり、心がめちゃくちゃになったりします。もっと切り捨ててもいいはずなのです。この「全てを得たい」という心が罪の世界を作っているのです。 財というものは、一定のものであり、それを人間同士で奪い合っています。余分なものは、他の人のために使っても良いはずです。たとえば、マザーテレサがしたように、今、死に行く人のために捧げられたら、どんなに素晴らしいでしょう。しかしそれを出来ない私たちがいることを、主はご存知です。 私たちは主に従って行きたいと願います。そこに真理があることを知っているからです。しかし、こんなに沢山のものを持っていて、捨てることができない。どうしたらいいのでしょうか? イエスは言われるでしょう。「だから従ってきなさいとしか言っていないでしょう?」彼に従うとき、何が不要かが分かるのです。そこに価値が無いことが分かります。そして少しずつ剥ぎ取られ、気づいたとき、必要なものだけで、充分に満足する生き方に変わっているのです。 福音のために全てを捨てたら立派であると聖書が語っているのではありません。聖書は、何倍も受ける、と語っています。キリストと共に本当の価値に生きるとき、自分の損になっていないことに気づくでしょう。実際、ペテロが家族を放っていたのは、3年間のみで、使徒行伝では、奥さんを連れて伝道していたことが分かります。 家族は、最初は理解出来なかったかもしれません。しかし断絶というのではなく、その家族に仕えていくときに、最終的にはもっともよい夫婦とされていくということです。 自分の生活の中で、不安なものがあるにもかかわらず、しがみついているものはないでしょうか。そこから罪の結果としてむさぼり、人をおとしめるということがあります。イエスはわたしについてきなさいといわれます。そうする時に、不要なものだと気づき、それを自然に手放すことが出来るのです。 この青年もいつか気づいたのではないでしょうか。31節、「先の者が後になり、あとの者が先になる」ルカの福音書では、別の文脈で二度出てくる言葉です。ペテロには大切な言葉だったことでしょう。御言葉を知り、それに生きるということは、短時間で出来るものではありません。罪をさらけだすのにも時間がかかります。でも大丈夫です。キリストにあって、私たちは日々成長させていただけるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.21 22:30:08
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