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カテゴリ:ゴスペル
自分が洗礼を受けたのは、1989年の12月23日。
イエス様を信じたのは、その年の夏だったと思うけど、 何月何日だったかまでは覚えがない。 受洗日よりも信じた日の方を重んじる国もあるようだし、 果たしてクリスチャンとは、信じたからそう呼ばれるのか、 洗礼を受けたからそうなのか、というのは議論の余地があるところだろう。 こんな例えがあるそうだ。 イエスを信じるようになった人は、ある意味『胎児』の状態、 そして、洗礼という決断によって、この世に『生まれ』るのだと。 もちろん、赤ちゃんは自分の決断によって生まれてくるわけではないけど、 イエスを信じて実質クリスチャンになっていたとしても、 洗礼という決断がないままのクリスチャンは、胎児のようにただ守られているのみで、 クリスチャンとしての試練もなければ、成長もないということだと思う。 ~礼拝後の交わりより~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.13 15:30:08
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