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Uooの三日坊主Diary

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2008.01.13
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カテゴリ:礼拝メッセージ
第34回目 マルコの福音書11章11節~25節(2007年1月13日)

「神を信じなさい」

***エルサレムに入城されたイエス。葉の茂ったいちじくに実がなっていないのを見て、「今後ずっとお前の実を誰も食べることがないように」と言われた。そして宮に入り、商売をしている人々を追い出した。***

この章の26節はありません。25節の後、27節にとんでいます。脚注を見ると、異本には26節として加えられているとのことですが、聖書を編さんするときに、多くの写本に書かれてあるものを聖書としてまとめていったため、26節は省かれたということでしょう。

今日の箇所は、よく議論される場所です。イエスはなぜ、いちじくを食べにいかれたのか。いちじくのなる季節ではないことを分かっていながら、呪いをかけたのはなぜか。あるいは、この箇所はそもそも時期が違っているのではないか、など。多くの議論があるにもかかわらず、全ての写本に残っていた。だから聖書として今あるのです。

15節からは、宮きよめの記事です。イエスのイメージとは、決して暴力をふるう人ではないはずです。宮きよめをされるイエスは、普段のイメージからはかけ離れています。

ここで私たちは、その背景を見なければなりません。まず宮きよめについて。神殿では、神殿の中でしか使えないお金がありました。そのため、両替商がいて、大変儲けていました。人々は両替したお金で捧げ物である鳩を買っていました。

この商人たちにとっては、それが生活の術でした。むしろ、イエスが責めたてたのは、彼らの上にたって、場所を決めてとりしきることで儲けているユダヤの指導者たちだったのでしょう。イエスは、彼らを頭において、宮きよめをしたのだと考えられます。

ところで、宮きよめの記事は、先ほどのいちじくの話にまるでサンドイッチのようにはさまれています。葉ばかり茂っていて実がなっていないいちじく、これは象徴的なものです。私たちの信仰が形だけで、実がなかったら、それは意味がなく枯れたものと同じ、ということをイエスは言いたいのではないでしょうか。

遠くから見たら、葉が青々と茂っていて、まさに「信仰しています」と見えるが、その実、キリストと共に歩むということをしていないなら、「今後いつまでも、だれもお前の実を食べることがないように」とイエスは言われたが、私たち自身が枯れるのです。それは、イエスの呪いの言葉で枯れるということではなく、信仰がない、すなわち枯れるという象徴としてそうされたのです。

エルサレム入城、そしてやがてくる十字架。救いの成就に向かっているイエスが最初になされたのは、宮きよめでした。きよめというと私たちは、タバコやお酒をやめることだと思い勝ちですが、本当のきよめとは、「神と友にいる」ということです。私たちは、どこまでいっても罪人であり、その罪はどうしようもなく重く恐ろしいものです。しかし主がいてくださるなら、私たちは本当の意味できよめられるのです。

日本はカルト集団が蔓延しやすいと言われます。欧州では法律でつぶしてしまえるが、日本は簡単に認めてしまうのだそうです。どうやら、カルトというのは、日本人にしっくりくるもののようです。多くのカルトの共通点として、形骸化された宗教、理念というものがあげられます。脱会カウンセリングを受けた人が教会にやってくる場合、彼らは教会の有り様に対して、非常に生ぬるいのではないかと感じるといいます。形骸化された宗教によって「信仰しているつもり」になることはとても怖いことです。

今恐れられていることの一つに、新型インフルエンザの脅威があります。報道されていることが現実になれば、一億の人が死ぬのではないかといいます。環境問題にしてもそうです。非常に危機迫る時代です。それらの問題は、起こるか起こらないかではなく、「いつ起こるか」の問題といわれます。必ず起きるというのです。私たちは相当な覚悟が必要です。そのような脅威についてどれだけ報道しても、テレビではそれを忘れさせるような楽しい番組をやっていて、人々は真実を忘れていきます。

外からみたら葉が青々として、実がなっているのかと期待させるようないちじくの木。テレビもそう、真実から目をそむけさせているのです。しかし、本質は枯れているかもしれません。信仰もそうです。形だけで、内側が腐っているのです。

22節、「神を信じなさい」とイエスは言われます。これは、次の段階の話をしています。新型インフルエンザ、大地震などの脅威により、文明や文化はすでに死んでいるのかもしれません。それに対して、「一体どうしたらいいのですか」と私たちは問いたくなります。ユダヤ人は神を知っています。そして弟子達は、イエスが救い主であるということがそろそろ分かってきた頃でした。その弟子達にわざわざ言います。「神を信じなさい」と。

「山に向かって動いて海に入れと言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなた方にいうのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。」23、24節。山を動かせます。その通りになるとイエスは言われます。そこまでには、「祈り」があります。1次元的なものではなく、祈りとは、神との会話、そして葛藤です。必要かどうか主ととことん語り合い、必要ならそれが成るのです。語り合いがない祈り、それが形骸化した信仰です。祈りとは、神さまに何でも話すこと、そしてみことばが与えられ、結論として山が動くこともありえるのです。

25節は祈っているときの状況です。「だれかに対して恨み事があったら赦してやりなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」聖書での命令形は、できるようになる、という約束と捉えられます。赦しなさいとは、あなたは赦すことができるようになる、という神の約束です。そして、私たち自身が神さまに赦されていることを気づいていくということです。

今まさに十字架へと向かわれるイエスが、内側の信仰を放さないように、そして艱難は信仰がなければ耐えられないということを私たちに教えてくださっています。多くの脅威にさらされたこの時代だからこそ、信仰が必要であり、信仰者が社会の礎になっていくのです。









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Last updated  2008.01.13 16:43:23
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