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カテゴリ:礼拝メッセージ
前後しますが、先週のメッセージです。
クリスマスが終ると、いよいよ受難週が近いということを意識するようになりますね。 礼拝のメッセージも、ちょうどイエス様が十字架に向かっていかれる場面に入りました。 ===== 第33回目 マルコの福音書11章1~10節(2007年1月6日) 「キリストは受難の道へ」 ***エルサレムの近くに来られると、イエスは弟子を使いに出して、子ロバを村から連れてこさせた。イエスが子ロバに乗られると、人々は「ホサナ、祝福あれ」と言って叫んだ*** いよいよキリストの受難へと進んで行きます。8節を見ると、エルサレム入城の際に群集は木の葉を道に敷いてイエスを迎えたとありますが、これはシュロの木でした。そのため、この日はシュロの主日と呼ばれます。 イエスのエルサレム入城は、旧約聖書にある預言の成就でした。ゼカリヤ書9章9節には、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でろばに乗られる。それも雌ろばの子ろばに。」とあります。救い主が、まさか、ロバに乗るとはどういうことでしょうか?馬の間違いではないのでしょうか?ロバとは英語でDonkey(まぬけ)とも言われるような動物なのに。 子ロバ、これはイエスの生き様を語っていると言えます。皆の考えているようなスーパースターとして登場しないのです。イエスは仕えるもの、弱いものとして現れました。8節のような「ホサナ!」と華やかに迎えられるのとは大変ギャップがあり対照的です。この「ホサナ!」と叫んだ同じ人々によって、数日後にはイエスは十字架にかけられることになります。人々は、救い主が自分の願いどおりのそれではないと知るや否や、イエスを十字架にかけたのです。 それを全てご存知の上で、イエスは彼らの敷いた上着や木の葉・・今で言えばレッドカーペットでしょうか・・・の上を行かれました。エルサレム入城、それはご自分の使命を果たすためです。 私たちは、人間的発想というものをかなり変えなければいけません。この箇所では人間というものがいかに不安定かを見せ付けられます。精神分析をする人は、不安と平安、悲しみと喜び、正反対のものですが、それはどちらも「症状」にすぎないといいます。人間には将来のことはわからないので不安になるし、逆に平安、希望を持ったりもします。しかしそれは単なる症状に過ぎず、同じ心の変化だというのです。将来に向かってどういう症状を持っているかに過ぎないのだと。 希望は妄想に過ぎず、不安は鬱傾向をもたらす、結局は今の自分しか信じられないというのが人間の姿です。しかし、信仰者は違います。神がおられるということ、そしてキリストの愛で照らされるときに本当の平安と喜びが得られるのです。妄想ではない、本物の喜びです。 イエスは、十字架という使命にむかって行かれました。周りがどうであろうと、その使命を果たすことによってこの世を変えていくのだという目的のためです。 私たちは使命を与えられて生きています。御言葉を読み、そのように生きていくとき、イエスがそうあったように、神の御心が成就していくという約束なのです。ロバが用いられたように、弱い私たちも神の国を作るという使命の一端を担っているのです。ある面ではそれは困難がいっぱいです。しかしある面では、それは生き生きと生きてゆける唯一の道です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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