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カテゴリ:礼拝メッセージ
第35回目 マルコの福音書11章27節~33節(2008年1月20日)
「キリストの権威」 ***エルサレムで神殿の境内をイエスが歩いていると、祭司長、律法学者、長老達がやってきて「何の権威でこのようなことをするのか、誰がその権威を与えたのか」と聞いた。イエスは答えて、「これに答えたら言おう。ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」彼らが分からないと答えると、イエスも何の権威でするのかお答えにならなかった*** この箇所では、イエスは祭司長たちに試されましたが、うまく回避しています。ユダヤ人たちは、救い主が現れることをずっと待っていました。それは、民族全体で、待ち、期待していたのです。ちょうど、ドイツが東西に分かれていたころ、その壁が無くなることを民族全体で待ち望んでいたときのようにです。それは、韓国と北朝鮮の人々にとっても同じでしょう。日本には、そのように民族全体で待っているというものが無いため、私たちには分からないことでもあります。 ユダヤでは、敵でも味方でも、同じに待っているものがあったのです。そのような中で、祭司長、律法学者という立場の人々は、頭の片隅に真実を追いやり、待っているという人々の気持ちを利用して、自分たちの権威を作ろうとしたのでした。 ヨハネとは、キリストの道備えをした人です。預言者であり、ヘロデ王に斬首刑によって殺されました。28節、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と祭司長たちは尋ねます。イエスという人物は、民衆を扇動し、自分達が教えるのとは違うことを人々に教えていて、一体この人物は、何の権威で神の言葉を話しているのか、と、彼らはまさに正しい質問をしました。法律的には「正しい」質問です。(教会とは、聖書の権威によって建てられているものです。しかし、一方、カルト化した教会では、牧師の権威によって建てられているといえます。) ここで、祭司長たちはイエスを罠にかけようとしました。イエスがもし、「神の権威によって」といえば、「神を冒涜した」として訴えることが出来ます。なぜなら、祭司長たちが神の代理人である立場の人々だからです。しかし、「自分の権威によって」といえば、それもまた神を冒涜していることになります。どう答えたとしても、イエスを陥れることができる質問でした。 すると逆にイエスが彼らに質問しました。それに答えられたら、自分もその権威について言おうというのです。バプテスマのヨハネは天から?それとも人からのものか?ヨハネは預言者として悔い改めを迫りましたが、祭司長たちは彼の言葉を聞かず、放置しました。そして、刑に処せられるときも、助けようともしなかったのです。彼らは、「分かりません」といわざるを得ませんでした。31節「天からのものだといえば、ではなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろうし、人からのものだと言えば・・・彼らは群集が怖かった。皆がヨハネは本当に預言者だと思っていたからである」 クリスチャンでない人がここの箇所を読むとき、彼らは正しい質問をしていると言うでしょう。なのに、なぜイエスは答えないのか?と。彼らが分からないと答えた、その経緯をここで私たちは見なければなりません。それは、「真実と真理に向き合えなかった」ということです。これが悲劇を生むのです。 彼らは旧約聖書の専門家でした。神の言葉を伝えようという思いがあったはずです。最初から詐欺師であったはずはありません。同じように、クリスチャン、牧師であっても罪を犯します。今年になって、愛知県では何人かの教職者が性的問題を犯して解任されました。最初から、牧師の立場を使って悪いことをしてやろうなどとは思っていなかったはずです。 神によって救われ、宣教の道に入り、しかし、真理と真実から目を離した途端に形だけの信仰に陥ってしまったのです。私たちは、牧師達のために祈らなければなりません。 「真理、真実に向き合っているか」が問われます。一歩そこから外れると、神の御名を借りて、狡猾な殺人の罪を犯すことにさえなります。彼らはこの後、自分の手は一切汚さずに、人々の手を使ってキリストを殺すのです。 「今ある、私たちの宗教観を壊す者が来た。私の納得しないことをやる奴が現れた」祭司長たち、彼らこそが変わらなければなりませんでした。しかし、自分たちは決して変わらない。イエスこそが変わらなければならないという態度です。聖書に聞かなかったのです。 常識的に「こうだ」と思っていることも、まず聖書に戻ってみましょう。自分の感覚、感情にたとえ合わなかったとしても、聖書に合せられないのなら、祭司長たちと同じことになります。 くだらないテレビ番組を敢えて見るようにしています。それらがどのようなメッセージを発信しているかを知るためです。ある番組で婚外婚について話していました。少子化を止めるには、それを認めるべきだと。それは良さそうに聞こえるかもしれません。しかし、生まれてくる子供たちは年金の働き手という理解でよいのでしょうか?結婚という制度は神が作られたということを、彼らは知りません。離婚には、呪いにも近い神の裁きが待っています。子供を「つくる」という表現にも既に、性的なことをいいかげんに扱っている日本人の姿勢が現れています。こういったことが、今の社会を滅茶苦茶にしています。それは聖書から教えられるのですが、世の人には分からないのです。 ヨーロッパのある国は、クリスチャン人口が1%未満です。日本の数字と同じですが、本当だとしたら、日本以下です。なぜならそこはキリスト教国と言われる国でありながら、そうなのですから。10年程前まで、国が認めた娼婦がいたといいます。性的にはルーズな国民だといえます。 真理、真実に向き合わず、聖書に聞いて歩むということをしないならば、人間の思いはどんどん悪くなっていきます。形の上では、その国のようにキリスト教国であったとしても、内側は腐り続けていくのです。一端落ち始めた道徳は、戻ることはありません。公務員の不正は、自浄作用が全く効いていないことの現れです。どんなに法律を作っても、抜け穴は多くあり、それは法律では変わらないのです。 認識しないまま、腐っていきます。しかし、イエスこそが私たちの防腐剤となってくださいます。主を絶えず目の前に置き、主が赦してくださるから悔い改めつつ、霊的高嶺を目指していけるのです。そうしなければ、祭司長たちにイエスが語られたと同じく、「あなたには話すまい」といわれてしまうでしょう。真実、真理なるキリストに向き合い、私たちは一体どうしたらいいのかと言わなかったことが、祭司長たちの問題でした。人間がそのように罪深いことを主はご存知です。本当の意味で私たちが生き生きと生きるためには、聖書に聞き、真理、真実なるキリストに向き合い、どうしたらいいのですかとイエスに問いつつ歩んでいくことが必要なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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