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カテゴリ:礼拝メッセージ
ひさびさひさびさ~~~~の「礼拝メッセージ」コーナーです
教会では、しばらくの間「テモテへの手紙」を講解いただいていましたが、 先週から再びマルコに戻ってきました。 先週のメッセージは、これからまとめて、出来れば今日中にアップします。 ***** 第43回目 マルコの福音書13章9節~32節(2008年6月29日) 「時代を見分けて」 ***前回に引き続き、イエスの預言。弟子達は引き渡され、打ち叩かれる。 イエスのために権力者の前に立たされ、イエスの証をするという。 家族が崩壊し、殺し合いが起こる。終りの日には、今まで起こったことのないような苦難が来る。 偽キリストが現れて人々を惑わす、だから気をつけていなさいと語られる*** 預言とは、「あずける言葉」と書きます。予言は「あらかじめ」と書き、意味が違います。 預言すなわち、神から預かった言葉として、イエスが弟子達に語っています。 いかにも宗教らしい箇所だと思われるかもしれません。 ここでは、世界の終りの日について書かれているからです。 私たちは、この箇所を、何か現実とは関係のない、恐怖映画のように捉えるべきでしょうか? この箇所は、私たちの生き方に決定的な差を与えるところです。 だからこそイエスは、「きをつけていなさい」と語られるのです。 イエスが語られたことが、真実なこととして歩まなければなりません。 イエスが再臨される日、あなたはどう過ごすかと聞かれたらなんと答えますか。 「伝道を一生懸命します」「両親に伝えるために故郷へ帰ります」いろんな答えがあるでしょう。 正解があるとしたらそれは、「昨日と同じことをする」です。 本当に「世界の終り」があるという前提があるなら、 今日やることも明日やることも一緒なはずです。私たちは終りの日を意識し、 覚悟しながら日々を歩んでいくのです。 死というものは必ずやってきます。しかし、それが明日やってくるとは誰も考えません。 「あなたの命はあと1ヶ月だ」といわれたら考えるかもしれません。 しかし、死を真剣に考えなければ生き方を真剣に考えるということは出来ないのです。 死があるからこそ、生き方がハッキリします。明日死ぬかもしれないという前提があるのです。 終りの日、最後の審判があるという前提があると知るなら、多くの人々の生き方が変わるでしょう。 9節。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ち叩かれる。 またわたしのために総督や王の前に立たされて、証をすることになる」 ここでの議会、法院、というのは、現在の裁判所とは違います。 法律はあってもその適用は滅茶苦茶で、王の気分次第で死刑もありました。 終りの日には、弟子達は迫害を受け、その家族も苦しみにあい、 イエスの名のために憎まれると語られたのです。 そこまでして、何故信じなければいけないのか、と思われる方がいるでしょう。 しかし、イエスは真実を語っています。13節「しかし最後まで耐え忍ぶものは救われる」 とありますが、その最後の審判を私たちが待つという前提があってこそ、 私たちの人生が生き生きとしたものになるのです。 この世のものに目を向けている間は見えないものがあります。 イエスを人生の中心に置き、物事を見るときに初めて見えるものがあります。 社会問題となっている「引きこもり」。 現代の子供たち・・・小学生から大学生まで含めて、将来に何にも希望がないという人が 増えているといいます。何故でしょう。それは、彼らが最後にどうなるかを知らないからです。 自分の人生において、最終的に何が待っているかを知ったなら、 彼らは今を真剣に生きざるを得なくなります。 最終的に、全てのものが「リセットされる」ということです。 神様の支配による、「新天新地」が来るという現実に対して、それを喜ぶ人、悲嘆にくれる人、 私たちは両極に分かれるでしょう。日本人はあまり喜ばないかもしれません。 全てのものが備えられ、今の生活を豊かに暮らしている人々にとっては、そうでしょう。 しかし、多くの貧しい国の人々は喜ぶでしょう。 神の支配の中で、本当に自分達が納得できる世界になるのですから。 神による「リセット」が空しいというなら、わたしたちは人生の目的について考えるべきです。 クリスチャンであっても、人生の目的が無いならそれはなんと空しいことでしょう。 目的地のないマラソンはしたくないからです。道に迷っているなら、意味がありません。 私たちの目的、それは「神のために生きる」です。その理屈はこれです。 私たちは、誰かのだめに生きるとしたら、その他のことを全て犠牲にしなければいけません。 自分のために生きるには、妻や子を犠牲にします。妻のためだけに生きるなら、 自分や子、その他を犠牲にするでしょう。それが、12節「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、 子は親に反抗して殺すだろう」ということの意味です。 私たちは罪人であるが故に、自分のためだけに生きるということをしてしまうのです。 自分の家族を売ってでも、自分を守ろうとさえします。 ある共産圏の国では、国民の1/5が秘密警察だったといいます。 一つの家族に一人の割合でスパイがいたということです。 国が滅びたとき、家族も滅茶苦茶になりました。 自分のために生きるとは、他の何ものをも犠牲にするということです。 しかし、全てのものは神様が創られました。 その神のために生きるなら、全ての人のために生きるということになりませんか? それが唯一、誰も犠牲にしなくてすむ生き方です。 14節「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」 これについては、少なくとも2回起こりました。 BC167年、シリアでエピファネスという人がエルサレムを攻撃。 AC70年、エルサレムが包囲され、ユダヤ人を殺し尽くしたといいます。 18節「このことが冬に起こらないように祈りなさい」 エルサレムの冬は凍死するほど厳しいのです。実際にエルサレムが攻撃されるという事と共に、 終わりの日の預言も含まれています。それは黙示禄で語られる「ハルマゲドン」についてです。 私たちが生き生きと生きるためには、神のために生きるという目的をもつことです。 それは、今ある仕事をやめて、牧師になりなさいとかいうことではありません。 今あるままで、全てのことを、神のためにするか、それとも生活のためにするか、 その2つは、内容がかなり変わってきます。どんな仕事であっても、それが明確な罪でない限り、 神は祝福してくださいます。この聖書の箇所は、怖い預言が書かれているというよりも、 私たちが生きるために何を指針としたらよいのか、それについて書かれているのです。 28節には、いちじくの木から学べとあります。病気には、兆候が見られるものです。 私たちが目的を持って生きつつ、世の中の空気を読んでいく時、何をすべきかが分かります。 そして、世の中というよりも教会を見た方がいいでしょう。 あらゆる国において、教会が力を持ち、世に対して良い影響力を与えつづけているというのに、 日本の教会だけがどんどん衰退に向かっています。 それが、日本のあらゆる問題に繋がっているとはいえないでしょうか。 神による救い、その影響を教会から世の中に与えていくときに、変わっていくのです。 イエスの預言は、最悪の事態が起こったとしても、そこからの救いも示唆されています。 預言を単に恐れとしてではなく、私たちが生き生きと生きるための教えとして捉えて 歩んでいきましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.29 20:29:27
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