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カテゴリ:礼拝メッセージ
前後しますが、先週のメッセージをアップします。
終末の預言についてイエス様が語っているところなので、 少し怖い感じもありますが・・・それでも、聖書の正しい文脈から 神様の哀れみ、豊かな恵みを読み取っていただければ嬉しいです。 ・・・って、毎度まとまらない超長文なんで、 それでも読んでくださるモノ好きな方のみどうぞ (笑 **** 第42回目 マルコの福音書13章1節~8節(2008年6月22日) 「キリストの預言」 ***神殿の境内で弟子がその素晴らしい石や建物に感嘆していると、イエスが言われた。 「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」 そこで弟子達がそのようなことがいつ起こるのか、また兆候についてお聞きすると イエスは言われた。偽キリストの出現、戦争のうわさ、そういうことを聞いても まだ終わりではない。民は民に敵対し、国は国に敵対し方々に地震、飢饉が起こる。 しかしそれは産みの苦しみのはじめであると。*** 13章は全体がイエスの預言として1括りになっています。 それは終わりの日についての預言です。この箇所はいろんな角度から見るべきでしょう。 今日はその前半を読み解きたいと思います。 少し前のところで、献金をするやもめの話がありました。 私たちはこの世で生きる中で、様々な誘惑があります。 それらのものを誘惑としない方法があるとしたら、それは修行することでしょうか。 それとも、全てのものを手中に収めることでしょうか。どちらも違います。 イエスの再臨に目をとめることこそが、その方法です。 イエスがもう一度来られるということを信じるなら、 全てのことの解決の手がかりになるでしょう。 世界的にカルトで問題とされる事柄は、 「終わりの日にはどうなるか」ということから始まります。 6節「わたしの名を名乗るものが大勢現れ」とありますが、例えば韓国では、 「我こそが再臨のキリストである」とする者が1年間に3000人もいたといいます。 これは5,6年前の資料ですから、今はもっと多いのかもしれません。 彼ら・・その教祖にしろ団体にしろ、お金を手にするためにそれをします。 この世的に、全てを手にいれるために「自分がキリストだ」と名乗るのです。 1節「なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」神殿を見た弟子が言いました。 対してイエスは、「これらはいずれ無くなっていくものだ」と語られたのです。 こういったものに栄華を求めるのは間違っているのだと、 カルト宗教とは正反対の文脈でイエスは語られています。 ここでイエスは2つの預言をしています。一つはAC70年のエルサレム陥落について。 この出来事は、もともとローマ軍は威嚇のみのつもりでエルサレムを包囲したのですが、 ある一人の兵隊の奇声によって、想定外の大惨事を引き起こしてしまったようです。 もう一つはイエスの再臨について。それは、全てのものの終わりを指します。 弟子達はイエスの話を全て理解できなかったものの、恐怖を覚えたことでしょう。 4節で、そのようなことはいつ、どのような予兆によって起こるのかとイエスに聞いています。 予兆として、「偽キリストが起こること」また、「戦争のうわさを聞くこと」と語られますが、 それが終わりではないと言われます。第2次世界大戦の時、当時のクリスチャンたちは、 これこそ再臨の時ではなかったかと考えたことがありました。 ヒトラーが偽キリストでは無かったかと考えたのです。 8節には、民族対立、また飢饉や地震のことが語られます。 これらのことは、時代と共に無くなっていくものと考えられていました。 しかし、現実は、今でも起こっており、民族紛争は今が一番酷いという学者さえいます。 キリスト教界にあっても、いろんな異端が現れました。 一つは、「道徳廃棄主義」のもので、全ては神の恵みであり、再臨があるのだから 罪を犯しつづけていても良い、いやむしろ犯していこうという考え方のもの。 もう一つは、人間を「二元論」でとらえ、魂が大切なのでそれを大事にすればいい、 物質は汚れているものだという考えによって、欲望のままに歩んでいくというものです。 両方とも、聖書の真理に少し触れています。このように、聖書の真理を自分の欲求に 合うように当てはめていく流れは、キリスト教会の中にもあるのです。 再臨を真剣に捉えることをしないなら、教祖は人々や教会を意のままに用いようとするでしょう。 しかし、はっきりと心に留めなければなりません。 イエスが再び来られる日というのは、最後の審判の時です。それは、確実に行われるのです。 「地獄」というものがある、ということです。そこに入らなければならない人が 必ずいるのだということです。ですから、その教理を徹底的に自分のものにする必要があります。 地獄と再臨を無視して、受け入れやすい教理にしている教会があります。 最後には、天国と地獄という2つの世界に分けられるというのが聖書の真実です。 その視点に立って、天の御国に行くためにはどうしたらいいのかと考えなければなりません。 終わりの日に「裁かれる」という前提が無ければ、 本当の意味で神の恵みを理解することは不可能なのです。 地獄・・すなわち永遠の滅びに入らなくても済むのだという恵みは、 終末、再臨があるという理解がないと分かりません。 なぜなら、その永遠の滅びに私たちは入るべき存在だったからです。 地獄、言い換えればそれは、「徹底的な孤独」です。 悲しみが永遠に続き、ずっと一人ぼっちであることです。 私たちはイエスの十字架によって、一方的な恵みによって救われた存在なのです。 宗教は怖い、オウム真理教と同じようなものだ、とおっしゃる方がおられました。 しかし聖書研究をしていく中で、「自分が神に造られたという、 その発想に変わることで人生が変わると思う」とおっしゃってくださるようになりました。 視点を変えなければ信仰は変わりません。なんとなく感謝、というのではなく、 本来私たちは「滅ぶべき存在」であったのに、イエスの十字架によって救われ、 本当の平安、喜びが与えられたのだということを再認識しましょう。 奇跡的に救われただけの存在なのです。 司法試験の倍率も目じゃないくらいの奇跡で救われたのです。 終わりの日の予兆として、様々なことが起こるが、 それは産みの苦しみの始めだとイエスは語られます。 それほど、永遠の裁きとは困難で耐えがたいものです。 そうであれば、私たちが救われていることを喜ぶことと同時に、 一人でも多くの人々が裁きに入ることのないように 私たち一人一人が働くべきではないでしょうか? この13章では、しばらく預言について学んでいきます。 私たちが本来、滅ぶべき存在であったこと、しかし一方的な恵みによって救われ、 永遠の命が与えられたこと、その喜び。それを前提にしなければ、 この後の預言を間違えてとらえてしまう危険性があります。祈りつつ読み進めていきましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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