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Uooの三日坊主Diary

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2008.07.21
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カテゴリ:礼拝メッセージ
先週の礼拝説教をアップします。
後半、ちょっと言葉遊びみたいで混乱しそうになりますが、
この箇所からもとても大事なことを教えられました。
神様に無限の期待をしていくことの素晴らしさを感じます。

******


第44回目 マルコの福音書13章33節~37節(2008年7月13日)

「私たちがこの世に残すもの」


***世の終わりの時については、だれも知らない、天の父だけがご存知である、
だから目をさましていなさいとイエスは語られる***


この13章全体を通して語られているのは、全てのものには始まりがあり、
そして必ず終わりがあるということです。
生と死、入学と卒業、あらゆるものに始まりと終わりがあることを私たちは知っています。
なのに、この世の始まりと終わりについては全く分かっていません。

私たちは、どこから来てどこへ行くのか。ブッダは答えたそうです。
「分からない」と。「だから今を生きるのが大切なのだ」と彼は説いたといいますが、
今を生きるとは、全体が分かってこそ出来ることです。
アルファでありオメガであるとイエスは自らを指して言われました。
Αとは始め、Ωとは終わりを指します。
イエスこそが全ての創造主であるからそのように言われたのです。

13章には、最後の審判について書かれています。それは、「定めのとき」であり、
必ず終わりが来るということです。
聖書を知っていようが知っていまいが、裁きがあるのです。
これについては多くの人が納得できる事柄ではないでしょうか。
詩篇には「神は速やかに裁かれる」とあります。
やったことについては人は裁かれるのです。

しかしクリスチャンは、イエスの血によってその罪が覆い隠された存在です。
贖われているのです。だから断罪されることはありません。
しかし、裁きの日が来ることは事実です。そして、いつ来るのかは分かりません。

エホバの商人は、いつそれが来るかをはっきり言いました。それは御言葉に反しています。
何故神は、その日を隠しているのでしょう。
何時来るかはっきり分かっていれば有り難いではありませんか。
カルト宗教は、終わりの日を決めます。
エホバの商人などは、今までに5,6回その日を変えています。
オウム真理教は、「終わりの日が近い」と言って多くの信者を引き止めました。
そのようにいう事で信者の心が一つにされるからです。

聖書には、それがいつかは書いてありませんが、何故かを考えることが出来ます。
テストが2週間後にあるとしたら?それにあわせて一夜漬けで勉強しようとします。
同じで、信仰が一夜漬けになる恐れがあるのです。
仕事や勉強は一夜漬けでも出来るでしょう。この世の営みについてはそうです。
しかし、「愛する」という人生において最も深い大切な分野においてはどうでしょうか。
あなたの大事な人の命があと数ヶ月の命と宣告されたらどうですか。
これもあれもやってあげられなかったと悔やむのではないですか。
「愛する」とは時間をかけて取り組むことです。
それは愛の本質的な部分であり、とても一夜漬けでは出来ないことなのです。

いろんな出来事を通して、多くの試練を通して、愛することを私たちは学んでいきます。
神をしらない人は、その定めの時、どうしたらいいのか分からず、悔やむことでしょう。
そうです、定めの時を私たちが知っているなら、神への愛が一夜漬けになるのです。
神は、その日を敢えて知らせないことで、
愛についてじっくり取り組むことを教えて下さっているのです。

しかし、「定めの時」にはその後があります。私たちは永遠に生きるからです。
突然に終わりが来たとしても、主に従う人にとっては「最も良い時」の終わりなのです。
定めの時とは、祝福の時です。神の愛の理解については、時間をかけて取り組むべきです。
どんなに愛されているのか、じっくり味わってみましょう。それが今です。
今私たちは、日々、神の恵みを発見し、それをじっくり味わうのです。

34節「それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、
門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだ」
厳しい言葉のように聞こえます。「目を覚ましていなさい」とイエスは言われます。
それは、定めの時がいつかがわからないからです。

目を覚ましておれとは、眠っているな、ということです。
寝ている人と起きている人の2種類がいるということです。
起きている人は、自分が寝ていないということがはっきりと分かっています。
しかし眠っている人はどうでしょうか。
自分が眠っているのか起きているのか分からないのではないでしょうか。
つまり、自分が「分からない」ということが「分からない」人です。
起きている人とは、自分が「分かっていない」ことが「分かっている」人です。

終わりの時について、安心しきって分からなくてもいい、神の言葉を聞かなくてもいい、
そんなことはどちらでもいい、というのが分かっていない人。
逆に、その時が何時来るか、それを知る必要がなく、それは大きな祝福の時だが、
分からない、というのが分かっている人。

私たちに分かっているのは、神がいるということ。そしてその神に愛されていること。
そしていつか終わりの日が来るということ。それだけです。
それらについて、分かるように歩んでいくのがクリスチャンなのです。

私たちの知識を聖書に織り交ぜようとしてはいけません。
ただ、愛されているということ、聖書について全てを理解することはできないが、
主が一つ一つ教えてくださるという信仰を持っている人には、
主が「よく分かっているね」と言っていただけるのです。

ニュートンという科学者は、微分積分や万有引力の発見で有名ですが、
珍しく生きている間に名を挙げた数学者です。人々に賞賛されましたが、
彼自身は「私は神の真理という大海を前にして砂浜で遊んでいる子供のようなもの。
海すら見ていない、ということが分かった」と言ったといいます。

人生を歩む中で、神の愛を知れば知るほど、神の大きさは分からなくなるのです。
しかし、神の大きさはこれくらい、と思った途端に、それ以下になってしまいます。
だから無限に期待しましょう。
神の恵み、祝福を味わえば味わうほど、さらにその無限の大きさは分からなくなります。
だからさらに期待して歩んで行きましょう。










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Last updated  2008.07.21 13:48:03
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