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カテゴリ:名馬伝説
「ナタの切れ味」と評された馬がいたことをあなたは知っていますか?
多くのトラブルを抱えながら三冠を達成した馬がいたことをあなたは知っていますか? 史上初の5冠馬の名前をあなはた知っていますか? ナタの切れ味をもつ最強馬 シンザン 5冠馬シンザンは北海道の日高に生まれた。 当初は特徴のあった馬ではなく 期待はされていなかった。 武田文吾調教師に預けられ、競走馬としての人生をスタートしたが 調教師本人も、全くといっていいほど期待はしていなかった。 武田厩舎には、期待馬オンワードセカンドがいたため シンザンはほったらかし。 ウメノチカラという素質馬の調教を見て シンザンのデビューをわざとずらしたというから 本当に信用していなかったのだろう。 しかし、一人だけシンザンの強さを発見していた騎手がいる。 それは、主戦騎手の栗田勝騎手である。 オンワードセカンドとシンザンどっちにのりたいと聞かれたときに シンザンです。 と即答したのは有名。 シンザンは武田調教師の期待を裏切り あれよあれよというまに3連勝 そして年があけた時にアクシデントが発生する シンザンは飛びが大きいために 後ろと前の足が当たってしまうのだ。 しかし、武田文吾発案のシンザン蹄でこれを防いだ。 その成果もあり 年明けの阪神のマイル戦を完勝(後にシンザン記念と名を変えた) スプリングSも、阪神3歳S、朝日杯3Sの両方の連対馬が出走してきたことで 6番人気と人気落とすものの 完勝。さらには皐月賞までその調子で勝ってしまうのだから すごい馬である。 しかし、ここでまた問題が発生する。 日本ダービーに向けて、栗田騎手はレースにでる必要はない といったのに対して、武田文吾は レースに使って調子を上げないとダメだ。 と対立が起きたのである。 そして、そこは調教師の意見が通り、オープン戦に出走。 そのときの馬体重まさに+10kg。 そんな馬が勝てるわけもなく、さらには闘志もなく2着に敗れた。 これがシンザンに初めて土がついた瞬間であるから なにかやるせない。 そしてダービー。 対抗馬は、皐月賞2着のアスカと思いきや それをNHK杯で破ってきたウメノチカラであった。 人気はウメノチカラが1番人気 シンザンは2番人気。 そしてレースは最後の直線でシンザンが先に抜け出すと それを内からウメノチカラが差しにくる。 なんとゴール400mほど前でシンザンを差したのだ。 このまま決まるのかと思った瞬間。 なんとそこまでシンザンに鞭は入っていない。 残り200mで鞭が入ると ゆっくり伸びて1馬身と1/4差したとこでゴール。 これが世に言う「ナタの切れ味」なのである。 シンザンの末脚が遅いわけでは決してないと思われる。 ライバルがいつも、最後まで粘り それをゆっくり差すから、ナタのような切れ味に見えるのだろう。 ついに菊花賞を目指す事になったシンザン 普通の馬だったら 夏の間は北海道などにいって休養するはずだ しかし、ここでまた武田文吾は普通と違うことをいう 「残して調教する」 これが最高に裏目にでてしまう その年はかなりの猛暑で シンザンは重度の夏バテに陥ってしまうのだ。 そして復帰戦のオープン戦も 京都杯と連敗を喫する それに対し、ウメノチカラは古馬相手に善戦し 順調に成長していた。 そしてついに菊花賞。 一番人気はウメノチカラ 二番人気はシンザン 前年に、支持率80パーセントを超えて3冠に挑戦してメイズイが負けていたこともあり シンザンでは3冠無理 という空気が流れていた。 そして菊花賞 このレースで思わぬ伏兵が活躍することになる カネケヤキである 桜花賞、オークスと連勝して 自信満々で菊花賞に挑んできたのだ。 この馬がまたすごい まさかの大逃げをうってでたのだ。 しかも、最後の坂のくだりでスパートをしているあたりから かなりの実力をもっていたことが分かる。 アナウンサーも「シンザン三冠なりません」 と興奮して実況してしまったほどだ。 しかし、シンザンからすれば相手にしていなかったのかもしれない 直線にむいたところであっさりかわすと 後は、ウメノチカラとの一騎打ち そのウメノチカラも残り200mで引き離し 結局は2馬身つけての三冠達成! ここに三冠馬シンザンの誕生である。 栗田勝はあまりの嬉しさに 指を3本たてて三冠を誇ったという。 しかし、シンザンは夏の無理もたたってか 長期休養を余儀なくされる その結果、有馬記念も天皇賞春も出走することができなかった。 天皇賞春に出走しないことにたいしてマスコミが 「強い馬から逃げてるだけでなありませんか?」 といわれた事に対して 「シンザンが走りたくないといっている」 と武田文吾が答えたのはあまりに有名 そして 夏になり オープン戦を一戦はさんでから シンザンは宝塚記念へと向かう この宝塚記念をシンザンは圧勝といってよいだろう 本気ださずして勝ったのだから しかし、この宝塚記念 出走馬全てが重賞をかったことのある馬だったのだから 今からすれば、とてもレベルの高いレースだったといえよう。 そして今度は最高峰のレース 天皇賞へと向かう ステップレースには目黒記念を選んだ ライバルはヤマトキョウダイとブルタカチホ 直線残り200mでヤマトキョウダイをぶっちぎって 圧勝かと思いきや 残り100mでブルタカチホがつっこんでくる そして交わされ負けたと思われた次の瞬間 シンザンに鞭が入り あっという間に差し返したのである まさに圧巻のレース 普通の馬にはできない芸当である その後天皇賞秋も制し いざ 有馬記念へ! しかし、ここでまた問題発生 実はシンザン中山の急坂を体験してことがなかったのだ そのため武田文吾がまた無理をいいはじめるのだった・・・。 「中山競馬場で調教させろ!」 シンザン一頭のために中山競馬場をあけろと言い出したのだ もちろん無理である その結果武田文吾は中山のオープン戦に急遽シンザンを出走 なんと実戦で調教したのであった それに対し、もちろん栗田騎手が黙っているはずもなく またもや対立 結果は、調教師の勝ち そして栗田騎手を背にのせてシンザンは負ける 栗田騎手からすれば 名馬シンザンが格下相手に負けるのが許せないのだ 栗田は街で飲みまくり 次の日のレースをさぼった その結果、騎乗停止で有馬記念ものれないことに かわりに松本騎手で最後のレースへ このレース様々な馬 騎手がシンザンにいろいろなことをしかけた 特に、加賀騎手騎乗のミハルカス シンザンに荒れたうち枠を通すために 自分は外ラチいっぱいへ しかし、まさかまさかでシンザンはそのさらに外から走ってきたのだ。 1頭分の隙間もない大外である その結果、一瞬シンザンが消えたように見え 「シンザンが消えた」 という名実況が生まれた そのままシンザンは完勝 こうして5冠馬が誕生したのであった。 シンザンは種牡馬としても成功し(ミホシンザン、マイシンザンなどが子供、孫である) さらには35歳まで生き続け 競走馬の長寿最長記録を更新した 様々な記録をうちたてたシンザン 今までも、そしてこれからも愛され続けるべき馬である。 生涯成績 19戦15勝 2着4回 *グレード制がない当時、八大競走と呼ばれたクラシック5競走に 春秋の天皇賞(1980年までは勝ち抜け制で、天皇賞優勝馬は再度出走することはできなかった) 有馬記念といった主要レースにおいて、牡馬が獲れる全てのレースを制したというもの。 この後シンボリルドルフが現れるまで「シンザンを越えろ!」 は日本競馬の合い言葉になった。現在でもシンザンは 史上最強馬の1頭と考えられる競走馬である。 ダートで勝ちたい人は、ここにヒントあります! もし本当に感動したという方は ブログランキングのワンクリックお願いします。 それが私の元気の素なので・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.10 13:22:54
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