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最近気になっている事。
些細な事にイライラすること。 しかもそのイライラすることに対して、抑圧、と言うか無かった事にしたい心理が働くこと。 そしてそのイラついた原因をたたきのめしたくなる事。 「ネガティブを愛する生き方」でイラついたり怒ったりすることは悪い事じゃない、と言うのを読んで、正当化ではなく、受け入れられるようになったと、私は思っていたがそうじゃないみたいだ。 上手くいかずに怒ったりイラついたりしたことに対して、ダメと言われたり、怒られたものが未だに残っているようで、無かった事にしたがっている自分が居る。 そんな自分が居るのことさえ、最近まで気づかなかった。 多分原因に対する怒りとは、それを責任転嫁したものも含んでいるんだろうな、と思う。 相手が本当に悪いかどうかはどうでもよくて、とにかくイラつかせ怒らせた事に対する怒りがある。 同時にその事を忌み嫌っている私もいる。 イライラと怒る自分を嫌い、憎み、嫌悪し、無かった事に従っている自分。 でもそのイライラと怒る私は、そのこと自体を許さない。 結局私はその許せない苛立ちも思いも全て、更に私を苛立たせ、怒らせたものにぶつける。 その為余計にそのエネルギーは大きく、手に負えないものになっていったようだ。 怒り苛立ち喚き倒す自分を嫌う自分も、結局は誰かに愛されたいのだ。 苛立ちを現して、周りに忌み嫌われた分、そんな自分を忌み嫌った。 苛立つ自分が居なければ、もっと愛されるのに、と憎んだ。 そして巡り巡って苛立つ事をする人や物を忌み嫌い憎む。 お前さえいなければ、お前さえなければ、私は怒らず他人に嫌われず生きていけるのに。 結果として、一瞬にして殺意までに高まるこの怒りや憎しみは、怒る私とそれを忌み嫌う私の相乗効果であるようだ。 私の中の【怒り人格】は素直にその姿を現さない。 ちょと見た感じ【女子高生】や【ゴスロリ】として、現われているようだけど、何か違う。 本当は別にいるような感じ。 私の中の怒りが普通に怒りとして出るだけでなく、さらにそれを忌み嫌う怒りもあって、複雑に分裂しているかもしれない。 自分を嫌ってもよい。 それは私が持っている指針の一つであるが、嫌わない方が良い、と言うのがわかって以来逆にそれを遠ざけたい自分もいる。 闇に居た自分から光に居る自分に変る時に、感謝で無く忌み嫌って闇を切り捨てようとしている自分。 それが今の状態。 怒りを抱いたなら、まず素直に怒る。 それが出来なくなっている。 分析して原因を探って。 それも大事だけど、正当だろうと、逆恨み的な怒りであろうと、ムカつくっ!って言えば良いんだよ、私。 それを忌み嫌っている自分にも。 確かに今まで怒り人格のために感情コントロールできなくて、大変な目に合ってきているよね。 だから忌み嫌うのは当たり前だよね。 辛かったよね。 そう言ってハグをする。 今イメージ出来るのは怒りや感情を忌み嫌っている自分。 大体小学校低学年くらいかな。 なんか鬱人格とも似ているかな? 鬱人格、と思っていたのが自分を忌み嫌っている自分なのかな? ここは要確認だな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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