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カテゴリ:自分を見つめる
時々、私がブログに書く個人的な事とか体験、思っている事、吐き出しなどに対して、
「そんな個人的な事を表にさらして何が嬉しいの?恥ずかしくないの?」 と言う人が居ます。 うん、極偶に。 恥ずかしい、のか? 確かに幼いころは表向き良いカッコしたがリの面があり、繕おうと頑張った事もあるが。 自分がやったこと感じた事その他諸々を表に出すのが、どうして恥ずかしいのかが良く分からなくなっていたりします。 だって自分でしょ。 自分がやった事だもの、その事実は事実で認めるものじゃないのかな? たとえそれが人の目に触れなくても、それは消せないものだし。 どうしても人目に触れられたくないなら、その事をしなければいいし、逆にそれが恥ずかしいって思うこと自体がおかしいのかもしれない。 ある時そう思ったのですね。 多分小学校低学年の、10歳かそこらの時。 ちなみにそう思うきっかけが、母が親戚や近所の人に対して、私の幼い我儘やヒステリーを私の前でしゃべって、貶めた事があり。 じゃあそう言う事をしない、またやった事はやったことで言われても恥ずかしいと思わない、と心に決めたことだったりするのですが。 そう言う意味では、ちょっとした事でも恥ずかしい、表向きの行儀の良い顔が必要、という状況から逃れることが出来たのだと思うのですが、同時に良いカッコしたがる自分を分裂させただけのような気もする。 ちなみに母は人一倍、幼い言動をして、さらにそれを公にされるのを嫌がります。 だからこそ私をコントロールする為に、そう言う事をしたんだろうな、とは思います。 自分の家や人の目に無いところでの言動が恥ずかしいそうで、じゃあ、そう言う言動辞めたらいいと思うのですが、辞めたくないそうです。 ま、カルマの一種だな。 それに私は私が体験したのは個人的な事だけど、その体験が誰かの役に立つ事があるかも知れない、と言う事でブログでシェアする事が多いです。 更に言うならあまり自分一人で抱えているのが得意じゃない、ってのもある。 溜め込めば溜め込むほど、飽和して私自身が崩壊してしまいそうになる、と言うのもあるし、整理整頓のために書くこともある。 ただ単に吐きだしたくて書くこともある。 これはこれで後で読むとキレーさっぱり忘れているので、浄化していると言うか何と言うかですね。 でも個人的な事で、誰かを恨んだり憎んだり愛したり好きになったり悲しんだり、めちゃくちゃで混乱したり、二律配信を抱えてどちらかにならなきゃと焦ったり、そう言う事をしているのは私だけじゃない、と言うのがわかって来たので、やっぱりシェアできるものはシェアした方が良いんだろうな、とも思う。 もちろん100%シェアする為に晒している訳では無く、どうしても少人数の人だけにシェアするにとどまっている事もたくさんあるし、自分の中に留めているものもある。 本当は100%シェアしても良いんじゃないかな? そう思う事もある。 私が体験その他を「シェアできない」と思う時、やはり恥ずかしいとか他人にどう思われるかをすごい気にしている自分が居るし、他人が理解出来ると思えないと不信の目で見ている事にもなっているのかな、とも思う。 気心知れてなくても、読んで理解できる人はいるだろうし、逆に気心知られていると思っても拒否する人は拒否するものだし。 うん、難しいな。 結局人間不信が私の根っこに渦巻いているのかもしれない。 シェアする、と言えば言葉は良いけど、結局それで人を試して分別を掛けているのかもしれない。 本当に表裏の全てを晒したら、受け入れる人などいない。 そう思っている自分もいるし。 でも全てを受け入れてほしい、と思っている私もいる。 だからシェアできるものはシェアする。 結局これは誰のためでもなく、自分の鎧・城壁を壊すためにやっているんだな。 人のためじゃないし、その為その人がどう思っても感じても構わない、と思っている。 だから余計に羞恥心はないんだろうな。 でもそうすると「恥ずかしい」ってこの感情というか想いは何だろうね。 自分を律して、成長する為のサインの一つなんだろうけど、それが歪みを発したり新しいカルマを作ったりもするんだから厄介だな。 厄介、と思う事も変なんだけど。 そんな訳で、私の羞恥心が世間大多数とはちょっとずれた所に在ると言うお話でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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