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テーマ:たわごと(26823)
カテゴリ:その他諸々の事
久しぶりに蝶々さんの著書「小悪魔流。」を引っ張り出して読んだ。
ブログ本なんですが、やっぱりこーゆーブログ本って季節ものだな、って思った。 やっぱりリアルで同じ時代に見てないと、分からない事もあるなぁって感じで。 もちろんそんな事じゃなく、未だに通用するあれこれも沢山あるんですけどね。 そして読み返した分だけより深く、 「ああ、こういう事を言いたかったんだなぁ」 って改めて実感する話もある。 そしてもちろん 「ああっ!そーだよ、そーじゃん。方向転換するって言ったのに、元に戻ってるじゃん、私」 と突っ込みたい事もある。 そして毎度思うのだが、言葉って本当に受け取り側の度量によって、受け取れる量や質って決まってくるんだな、ってことをしみじみ感じた。 それは発信側がどれだけ言葉を尽くしても、仕方のない領域と言うか、不可侵と言うか、そう言うものなんだとおもう。 もちろん発信側が言葉を尽くさなくて良い、と言う話じゃなくて。 相手が何を言いたかを本当に感じ取るには、やはりそこにチューニングを合わせたり、自分の間口を広げたりする必要はあるなぁって感じです。 もっともあまりよろしくないネガティブとかウジウジしたもの、村根性などのような波動をさげるモノに合わせたり、広げたりする必要はないと思うけどね。 それと同時に自分の偏見の眼鏡は出来るだけ取り去って、ニュートラルに居た方がいいのだろうなぁと。 そうじゃないと受け取れるものも受け取れなくなる。 あ、これは何でもそうかも。 ただ人をうらやんでウジウジしていてもはじまらないし、羨ましいと思う事は悪いとは思わないけど、そこに恨みとか卑屈な気持ちは入れない方が良いような気はしている。 だからと言ってそう言うのを抑えつけろとか、言うのも別の話で。 そう言う感情が動くんだ~ってことをちゃんと認めるのも大事だと思います。 置いておいて。 なので言葉を尽くしても、齟齬が出る場合は恨みとか怒りとか抱かずに居た方が良いんだと思う。 相手を「馬鹿」とか「まぬけ」とか罵るのものじゃなく、「仕方ないなぁ」と受け止めるモノなのかもしれないな。 そして出来るだけ待ってあげるのが良いのかもしれない。 何時かは分かるはずのモノだから。 で、何が言いたいかと言うと。 そうしてようやく本の中で本当に蝶々さんが言いたくて、私が度量が足らなくて受け取れ切れてない事を、発見したのでした。 ま、それだけ私が成長したのかもしれないな、と思うとまたちょっとだけ嬉しかったりもする。 うん。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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