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カテゴリ:自分を見つめる
朝、目覚めてからぼーっとしていて、ふと出てきたのが「怖れ」でした。
最近私は上のこと、見えない世界のこと、その他諸々を今交流している人たち以外の方に見てもらったりすることに、妙に拒否感を感じてました。 ふと、それは一体何だろうなぁと探っていったんですね、ぐっちゃになったタコ糸を解いて、紡ぎながら考えていたんですね。 (あ、タコ糸は、大昔に服飾の勉強をした時の、織物関係で手に入れさせられたもの 苦笑 ゆえに何十メートルあるんだ?って長さです) それで出てきたのは、自分の見たもの・感じたモノを否定されたらどうしよう、と言う怖れでした。 自分が見ていたモノがただの幻想だったら? ただの自分の独り善がりの妄想だったら? 別にそれはそれで構わない、と言う気持ちも何処かにあるのですが、なんかこれ、根深いな、と思って更に見て行ったら。 やっぱり出てきたのは、親からの否定、でした。 自分の見たもの・感じたものを 「あんたはおかしい、変だ。 そんなことあるわけない。 貴方の言うことは、間違っている」 そう言って頭ごなしに否定しまくった母親の言葉がグルグル出てきました。 自己肯定が丸っきり出来なくなるくらいの、拒否の連続で、でも自分を手放したくなく、親には好かれたいという中で、不安定に揺れまくっている自分。 時々顔を出す、自信のなさはここが原因だと思いました。 同時に後自分の見たもの・感じたものを否定されたくない、と言うプライド。 自分は正しい、間違ってない。 いや、間違っていてはいけない。 間違っていたら、親にやられる。 負ける。 負けたら自分が自分で無くなる、という危機感。 と言うこれもまた揺れまくった自分の対となる裏意識的なモノ。 これらが今も私の奥根深く巣食っていて、他人に何かを見てもらったり、頼ったり、聞いたりすることの妨げになっているようです。 同時にそれを素直に聞いて行動するのにも妨げになっているようなのが、分かりました。 「怖れを手放せ」 と簡単に言う人もいますが、私はそれを何も考えずにやったら、逆にダメだろうなぁって思います。 まず、怖れを認めて、「何を」恐れているかを明確にするのが大事だろうと思うのです、最近。 分かってしまうと、案外にすとん、と自分の中に落ちて来て、それが良いとか、悪いとかじゃなくて、共存することが出来るようになるんじゃないかな。 と言うのが最近感じていること。 「怖れ」を感じなくなったら、人間ふてぶてしく、可愛げがなくなるのかもなぁ。 「怖れ」と言うのは、ある意味大事なものでもあるかなぁ。 「怖れ」が無くなったら、勇気の大切さとか、一歩踏み出す凄さとか、感じられなくなるような気もするしね。 でも、必要以上に「怖れ」にすっぽり掴まって、浸っちゃうのも違うよね。 そんな訳で共存するのが大事なんじゃないかなぁと思ってみた。 私はまず「怖れ」を持っていることを認めた。 改めてそう言うことが怖くて仕方がないのだと、知った。 無理にポジティブにすり変えようとするのもやめた。 そうだね、そう言うことが怖いんだよね。 怖れているんだよね。 同時にいい子で先生ぶりたい自分もいて、説教しようとしたり、強引に刷り込もうする自分もいて。 こうやって感じなく、麻痺させていったんだなぁと思ったり。 麻痺させたことが悪い事じゃないと思う。 必要だからそうしただけ。 今はそれが必要ないからそれを外す訓練をしつつ。 怖がる自分と対話しながら、同調しながら、怖れとの共存を、バランスのとり方を覚えていきたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.09.10 19:31:27
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