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カテゴリ:自分を見つめる
最近改めて思ったのだが、私は私の大切なもの以外は基本どうでもいい、と言うスタンスなんだな、と思いました。
どうでもいいから、何をしても気にしない。 なので、一見何でも許す人に見えるのかもしれない。 しかしやっぱり私にとっての聖域や、不可侵なモノ、と言うのは存在していて、それを脅かされると絶対的に許さない。 それは何よりも譲れないこと。 それを知らない人は色々 「他人に@@@と思われるから辞めた方が良いよ」 「そんな人だと思わなかった」 などと言ってくる。 それこそ余計な御世話だな、と思う。 結局自分が「こうする人」と思っていた行動から外れられるのが嫌なだけなのかもしれない。 誰にでも絶対的に許せないことはあるし、その領域を犯した場合、許されないことがあるのは覚悟の上じゃないのかな。 そしてそれに対する色々な作用も。 それに私自身、他人に何を思われようと、どう言われようと、どうでもいいというのはある。 気にしていても仕方ないしね。 その人の行動は思考はその人の問題やバックグラウンドにもよるし。 その人それぞれの捉え方とかあるし、無理して自分を好かれるようにふるまっても仕方がないし。 確かに自分の色々な事を考えると、良いように思われていた方が得だけどさ。 損得勘定だけで行動するのも好きじゃないんだよね。 自分の好きにふるまって、相手を傷つけてもいいとは思わない。 でも相手を気にし過ぎて自分らしく行動できない方が、私には何倍も苦痛だし。 なので自由にふるまう分、誰かを不要に傷つけないように行動しようとは気を使っているつもりだ。 それでも傷つけた場合、内容によっては放置することもあるが、基本的には誠心誠意謝ることをするしかない。 もちろんいい訳やら、こちらの事情やらはあるけれど、それよりも何よりも傷つけたことを謝ることが一番大切だと思う。 時には謝罪しているのか、言い訳して「自分は悪くない」と主張したいだけなのか判断付かない人もいる。 ウダウダ何かのせいにする暇があるなら、ちゃんと誠意を持って対峙した方が良いんじゃないかと思うこともある。 実際やったことには変わらないんだし。 全てが赦されるとは思ってない。 私はそれで良いんじゃないかな、と思う。 全てを許さなくちゃいけないっていうスピ的な思考もあるけど、許さないこともあっていいと思う。 だから私は他人に許されなくても、それを受け入れるというかその人の行動を許している。 認めている。 結局私の他人への行為は、自分自身の行為の裏返しだと思う。 誰でもそうかもしれない。 他人にやっていることは、自分にもやっていること。 自分に対してやっていることは、他人に対してしていること。 そうすると自分が自分に対してどうふるまっているのか見えてくるかもしれない。 他人がどうこう行動すべきだ、という考え方は最近捨てた。 その人の行動は余程道に外れてない限り、どうでもいいと思う。 他人への期待も殆ど捨てた。 でもたまにひょっこり顔を出して、びっくりする。 ありのままに他人を受け入れる、と言うのはありのままの自分を受け入れないと出来ないことだ。 なのでまずは今の自分を認めて受け入れていたいと思う。 例えどんな自分で合っても。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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