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カテゴリ:自分を見つめる
今日本屋さんで、スピ系の本をふと手にとって、ちょっと立ち読みをしてみた。
そしたら 「エゴや思い込みを手放したら、貴方は貴方らしく、思うがままに生きることが出来るのです」 と書いてあった。 まあ、後はお決まりの文句でした。 …………、間違っちゃいねーが、説明をぶっ飛ばし過ぎだろうっ!! と思った。 手放しましょう、と言われて「はいっ」って出来るほど、単純なものばかりでは無いはずなんだけど。 そう言うエゴや思い込みを持ったきっかけを遡って、その傷を解消しないと意味無いでしょうに。 更に手放した「つもり」になって、自分の中の都合の悪いモノを見ないふりをしていたり、抑圧していたりする人も結構いて。 それが分からずに手放したつもりになっていると、逆襲が来る時があります。 でもそれさえも抑え込んでしまうと、かなりの歪みが出ることもあるらしい。 それでも人は結構「手放したつもり」「乗り越えたつもり」になって、その傷から目をそらそうと躍起になっていたりします。 これは人によってはその辺りを指摘されると、逆切れするので、分かりやすいかと。 本当に「何処が手放したの?」というくらい、もしくは「何かが取り憑いた?」と思うくらいのすざまじい状況になることもあります。 まあ、その人の器の大きさや底の浅さを見るには良いのかもしれないけど。 と書いている私も、ちょっと前まではそのような状態だったな。 そして自分の都合のいいものを探し求めて、ジャッジしていた。 ともかく今は、そう簡単に手放すのでなく、じっくり付き合って向き合うことをしています。 時々逃げたくなるし、逃げているけど、でも完全に逃げるのでなく、また改めて向き合っての繰り返しだけど。 そうすることによって、結局色々なものが見えて来ているような気がする。 もちろんまだまだなんだけど。 ネガティブもポジティブも色々なものは、一概に手放せばいいってモノじゃない。 手放していいものと悪いモノをちゃんと分別して、向き合うモノはガッツリ向き合って、自分の肥やしにしてそうして行くものなんだと、ようやくハラで理解し始めた。 まだまだハートでは出来ないが、頭の知識だけの時より、進歩しているかと。 少しづつ進んで言っていると思う。 3歩進んで3歩下がったように見えても、同じ所に居る訳じゃない。 時にはいきなり進んじゃって、仲間から頭一つ浮き出てしまって戸惑うこともあるけれど。 でもそれが他のところでは当たり前のことだったり。 でもそれさえも、逃げることでも見ないふりをすることでも、見下すことでもなく。 自分で向き合うことなんだろうなぁ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.12.29 20:15:47
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