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テーマ:たわごと(26826)
カテゴリ:自分を見つめる
「ごめんなさい」と本当は言いたい事が沢山ある。
沢山伝えたい事がある。 でも何故か出来ない。 行動しようとすると思わずブレーキがかかる。 それはプライドだったり、見栄だったり、意地だったり、恥ずかしさだったり、後ろめたさだったりするのだけど。 そんなもの蹴散らしちゃえ。 そう言って行動出来たらいいのだけど、今はまだそこまで行けない。 ためらっている。 その奥底には拭いきれない不信感と、恐怖と、哀しさが横たわっている。 それらに支配されて、行動を決めるなんてとても頭の悪い、失礼なやり方なのは分かっているのだけど。 でも分かっていても出来ないから、「カルマ」として存在する。 「ごめんなさい」 自分の行動をちゃんと把握できず、訳のわからないままに振舞っていた。 今はもうその失礼さが分かる。 その時の後始末をしたいのだけど、未だに正当化したがっている自分もいる。 自分の行動を謝ると自分が負ける、駄目になる。 間違っていて否定して自分がなくなる。 そんな思いが何処かに残っている。 いや、違うよ。 自分の過去の行動を反省して謝っても、自分を否定したり失くすことじゃないよ。 その時の行動が自分にとって最良だと思ってやったのは、その時は間違いじゃない。 ただそれが今は間違いだと分かるだけ。 謝るとは誰かに屈服することじゃないよ。 服従を誓うことじゃないよ。 もしそれを盾に誰かが支配しようとしたら、それは跳ねのけて当たり前だからね。 盾にすることが間違いだからね。 自らの行動の過ちを認めることは、相手を無条件に正義だとすることでもないよ。 そう言い聞かせながら、自分の傷に気づく。 自分が正しいと主張し、屈服させ支配しようとした親の影響が未だに抜けきらない。 明らかな誤りさえも強引に正当化し、時には相手を悪者にし、決して過ちを認めない母親。 そしてそれらにあがらいながら、生きる為に飲まなければいけなかった屈辱。 自分の過ちを一つ認めると、とことん支配をされてしまう恐怖がそこにある。 そうして自分が自分でないものにされてしまう、根本的な怖れがある。 相手を認めながら自分の主張を譲らないのはここが原因か。 そしてそれが結果として過ちを起こした後の謝罪が出来ないことに繋がっている。 そんな訳で今は未だ、ちゃんと面と向かって言えないけど、何時か言うために、ここで言っておきたい。 「ごめんなさい。貴方の気持ちが分からなくて、踏みにじってしまってごめんなさい」 ちゃんと自らの傷を治して、越えた時に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.02.25 19:54:55
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