|
カテゴリ:自分を見つめる
“家庭”ではありません。
「過程」と「仮定」を掛けてみた。 ま、始まりはACのCMなんだが。 「ぽぽぽぽ~ん」のじゃありません。 ベージュの背景に黒文字のテロップだけが流れる「今、私にできること」です。 「むやみに買占めるのはやめよう」 と言うのがあるんですが、結局これをやるのはどんな人だろう、何でこんなことをするのだろうって思ったのが最初。 で、多分倫理とか人としてとかモラルとか、道徳とか良し悪しとか、そういうモノをちょっとだけ脇にどけて考えてみる。 今は邪魔だから。 たぶん、自分が助かりたい人なんだろうな、と言うのは分かる。 というか、自分が助かりたい、と思うのは生存本能としてすごい当たり前のこと、なんですよね。 時にそれは他人を踏みつけてでも、って思うのはすごい本能として当たり前で、そうしないと生きていけなかったという種としての記憶があるので、それ自体が悪いとか訳じゃないです。 自分だけ、と言うのもまあこの段階では当たり前の欲求と言えば当たり前なんですよ。 自分が助かって、あ~良かった、で満足するのが第一段階として。 次の段階に進むと、自分だけが助かって満足するだけでは、物足りなくなってくる。 そして自分の好きな人もやっぱり助けたくなる訳です。 そうなると自分の愛する家族や友人達を助けようと躍起になる。 その人たち以外はどうでも良いし、時には犠牲にすることもある。 そして自分の愛する人たちが助かって、満足する、のが第二段階。 でもその友人や家族の好きな人や愛する人たちが、苦しんでいるのをみて、好きな人が心を痛めていたら、やっぱりその人たちも助けたくなる。 そしてそのことに必死になって助けて、満足するのが第三段階。 そしてそうやって関連する人たちを助けてそれで満足して終わるのか、と言ったらそうでなかったりする。 もし目の前で苦しんで困っている人がいたら、やっぱり自分が助かった方法で、助けてあげたいと思うのがその次の段階。 そうやって考えると、自分だけモノを独占しようとは思わないし、助けになることは共有・共用しようと思う。 そうやって自己愛が拡大していくと、やがて人類愛に繋がるんだと、ふと気付いた。 そしてすごい腑に落ちた。 あ、そしてそれが他人を自分の様に愛するってことに繋がるんだな。 結局モラルやCMでやって訴えていることは、人として愛を成熟させた段階の事を言っているんだなって思う。 ただ、この自己愛を持たずに、仮定を踏まずに、ぶっ飛んで最終的な成熟した在り方を強要されても困る訳です。 そうすると他者への暴力にもなるし、相手を尊重してないことにもなる。 そもそも自分を尊重出来てないんだから、他人なんて尊重出来っこない。 自分が満足してないんだから、他人の満足なんて望めない。 ただの強制して、コントロールすることにもつながる訳で、それはやっぱりさらなる歪みや痛みを呼ぶだけだなって思う。 同時に何時までも第一段階にいるもの、どうかなって感じる。 でも第一段階を満喫しないと、第二段階には進めないんだよね。 これはもういいとか悪いとか問題じゃなくて、そうなっている、としか言いようのないもの。 それを受け入れられるかどうかで、人としての成熟度が分かるのかもしれない。 受け入れていながら許さないのと、受け入れられずにゆるさないのは、全然質が違う。 前者は愛(ハート)に基づいての言動になるし、後者は理屈や感情や排除意識に基づいての言動になる。 その差は天と地以上にある。 でも無理やり受け入れようとすると、それはまた違うんだよね。 受け入れられないことは、まずは「受け入れない」で良いんだよ。 納得しないうちに受け入れようとしても、それは結局受け入れられないんだから。 そしてもう一つ「“受け入れられてない”事を受け入れる」と言う段階を踏む必要があるんだな。 実感として理解している人にとってはすごい当たり前の話ばかりなんだけど、知識として知っているだけの場合はどうしてもこの過程ってすごい大事だと思う。 で、私としては知識から腑に落ちて理解する、の段階でこれを書いている訳で。 更に行動への段階はこれからなんだよね。 一つの段階から次の段階へ移行するにも、やっぱり時期とか色々あるし。 他にカルマとか制限とかその他諸々もあるし。 それはもう仕方のないことなんだな、とようやくちゃんと理解した。 遅い? でもようやくここまで来れただけ、進歩なんだよ、自分。 先は長いけどな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.03.25 20:08:05
コメント(0) | コメントを書く |