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カテゴリ:自分を見つめる
ふと何故か思い出したこと。
ある方が 「言葉と言うのは約束事で、勝手に意味を変えてはダメだ」 と言う様な事を言ってました。 私は言葉とはツール(道具)だと思っていたので、それこそその人のそれまでの生き方が表れているため、使い方が様々で、齟齬が出たらより話し合って相互理解する為のもの、と思ってました。 そしてふと思い出した小説があります。 故・栗本薫先生の「レダ」。 いや、私が最初読んだ時はA4サイズの厚さ5センチくらいのハードカバーで、図書館から借りて持って帰るのが大変だった覚えが 苦笑 そしてその一冊の大きさとか色々で、読むのを挫折した覚えがあるんですけど。 今はもう文庫版しかないみたいですねぇ。 未来社会の話なんですが、その中に確か会話術みたいなリベート術見たいな授業があるんですね。 主人公の男の子はその「会話術」とても苦手で、どうやっても自分の気持ちをその方法に載せて発することができないという、悩みを抱えてました。 実際にそれで上手く会話できなくて、馬鹿にされていたり、一番上の兄貴分の人に心配されていたり。 そしてある事件がきっかけで、その男の子は悟る訳です。 「会話術」は自分の気持ちを伝えるものではなく、自分の気持ちを隠して、周りと合わせ無難に過ごすためにあるのだと気づく訳です。 そのシーンを思い出しちゃったよ。 多分その人は自分の醜い面などをあるのを知りながら、それを曝け出せない、つまりは認めきれないというモノを抱えているかもしれない。 その醜い面があるのを知られたら、人から嫌われるとか、なんかそう言うモノがあるような気が最近改めて感じるようになった。 醜い面を出すと嫌われる、と思っているということは、逆を言えば周りの人たちがそれだけの器を持ってないし、信用できない、という認識の裏返しでもあるのかな。 ついでに、なんかの批評で 「前世や漫画などの話ばかりする人は、今の自分を受け入れられず、また自分をさらけ出さなくて良くて、醜いものを観なくて済むから、そちらに逃げているだけだ」 みたいなことを読んだことがあって、これも当初は腹が立ったんだが、今となってはそれはその通りだなって思うようになった。 無意識の逃避だと思うようになった。 意識しての逃避ならまだしも、無意識にそれが良いことのようにやっていると、だんだんおかしくなっていくような気が最近はまたしている。 前世の話をしちゃいけない、と言う事じゃない。 それが今の何の問題とリンクしているかをちゃんと把握することが大事なのだと、思うだけ。 言葉に限らず、何でもだけど、やはりどうしてもそれまでの生きて来た経験によって、捉え方とかは違う。 それはもう仕方のないこと。 AといったらBでは無くてはいけないとか、AはCを表現してはいけないとか、そう言う事を言っているのをみると、まるで日本語が乱れているといって嘆いている学者のような気がする。 でもそれを乗り越えて相互理解をする努力が必要なのかもしれないなぁ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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